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 龍馬堂>>えにし>>諸藩(三) 
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坂本龍馬の目録

諸藩

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えにし

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諸藩(三)


村田巳三郎  福井藩士村田氏英の子。嘉永六年、黒船来航にさいし「武者修行」と称して同志らと江戸へ出る。江戸では銃砲隊の頭取をつとめ、攘夷や海防問題について奔走した。安政四年、福井藩に横井小楠を招聘するため熊本へおもむき尽力。将軍継嗣問題では松平春嶽のもと、中根雪江・橋本左内らと活躍する。龍馬との交流は文久三年より確認することができ、花押入りの書翰や勝海舟からの騎兵銃を贈るなど、たびたび顔を会わせる機会が多かったようで互いに議論を交わすなど、親しい交流をかさねている。慶応三年の大政奉還後、龍馬が土佐藩の使いとして福井藩を訪れたおりにも面会し、のちには春嶽に従い上洛、その補佐にあたった。
 明治元年、戊辰戦争に会津藩征討参事として越後口に出陣し戦後、藩の参政や大参事をつとめ新政府に出仕後、岐阜県令・内務大丞兼警保などを歴任した。

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北垣晋太郎  但馬国村役人北垣三郎左衛門の子。学問を池田草庵に学び、その塾頭をつとめ、剣術を江戸で千葉定吉・重太郎親子に学ぶ。龍馬とは同門の仲。農兵論を持論とし、但馬で平野次郎や美玉三平らと農兵隊生野組を組織する。文久三年、天誅組のあとを追うように生野義挙を起こすも近隣諸藩から攻撃をうけ壊滅、鳥取藩へ逃れ、のちに藩士へ列し戊辰戦争にも従軍している。元治元年、以前より蝦夷地の開拓を抱懐する北垣は龍馬らの蝦夷地開拓計画に賛成し、これに協力するも新選組の襲撃、つまり池田屋事件のため「北地策は全く瓦解」したのだという。
 明治二年、新政府へ出仕し弾正少巡察・同大巡察をつとめ、翌年には北海道および樺太を視察。同四年、鳥取県少参事をへて開拓使に出仕し、のちに京都府知事をつとめる。また琵琶湖琉水事業や北海道長官としても活躍した。男爵。

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肖像無  備後国の医師林金十郎の四男。はじめ広島へ出て漢学・医学を学び、万延元年には長崎へ遊学。英学を学んだのち、イギリス軍艦に乗り込んでは二年間にわたり軍学の修行に励む。慶応二年、薩摩藩に招かれ、同藩の海軍養成に尽力。いつ頃から龍馬と知り合ったのかは判然としないが、慶応三年の一一月、龍馬が暗殺される数日前に二通の手紙をやり取りしており、その手紙では林に対し「幕へでも、薩へでも、唯君をよろこび、君又天下に海軍を以てちからをのべたまう所へ御出」と、尊皇佐幕をこえた、自己の判断による行動を期待している。
 慶応四年、薩摩藩の春日艦々長をつとめ、阿波沖にて幕府の回陽艦と海戦を展開。のちに奥羽北越へ転戦し、翌年には兵部権少丞に任ぜられた。以後、佐賀の乱・台湾の役・西南戦争へも加わり、最終的には海軍中将へすすみ、呉鎮守府司令長官をつとめる。男爵。

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渡辺昇  肥前大村藩士渡辺巌の二男で渡辺清の弟。安政年間に江戸へ東遊し、学問を安井息軒に、剣術を斎藤弥九郎に学ぶ。のちに桂小五郎のあとうけ、神道無念流練兵館の塾頭をつとめた。このころ試衛館の近藤勇らと知り合い、道場破りの助っ人として親しい交流をかさねたと伝わる。文久三年、大村藩の尊王派同志らと三十七士同盟を結成し勤王活動に奔走。元治元年には藩論を尊王にかため、のちに薩長同盟を実現させるため龍馬らに協力をおこなった。現在は慶応二年と推考される勝海舟の動静を伝えた龍馬から渡辺昇宛の書簡が確認できる。
 維新後、太政官弁事兼刑法官権判事をつとめ、待詔局主事・弾正大忠・盛岡県権知事・大阪府知事などを歴任。元老院議官をへて会計検査院々長をつとめる。また衰退しつつある日本武道を保護し、その復興につとめた。子爵。

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神保修理  会津藩家老神保内蔵助の長男。長崎へ遊学し、海外事情にも詳しい会津藩異色の開明家。文久二年藩主松平容保が京都守護職に任ぜられると、これにしたがい京都へ上り、軍事奉行添役をつとめる。慶応二年、外国事情の調査のため長崎へ向かい、翌年の同地で「高坂龍次郎」と変名した龍馬と会見をおこなった。修理は龍馬から「会津にはおもいがけぬ人物にてありたり」との評価をうけている。
 大政奉還後、松平容保や徳川慶喜に江戸への東帰と新政府への恭順を主張したが入れられず、かえって主戦派の怒りをかい一時の幽閉後、藩論の分裂を警戒した容保から鳥羽伏見戦の責任を取らされる形で切腹を命じられた。江戸三田藩邸にて自刃。余談だがのちに父 内蔵助と妻の雪子も会津戦争のさい、自刃して果てている。

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三浦休太郎  西条藩士小川武貴の長男。嘉永三年、江戸で学問を安井息軒や山井璞輔に学び、安政二年に伊予西条へ帰国、三浦家の養子となり郡奉行をつとめた。安政年間の将軍継嗣問題のおり、西条藩の宗家紀州徳川家の家茂擁立運動に加わり、のちに紀州藩士に列す。文久三年頃、一時幽閉の憂き目にあうもやがて許され、宗藩の周旋役として朝幕間を奔走。大政奉還のさい、紀州藩家老代理として二条城へ上っている。
 慶応三年一二月、いろは丸事件の遺恨から龍馬を暗殺してくれるよう新選組に依頼したとの嫌疑をうけ、海陸援隊士らに襲撃されたが頬に軽傷を負うだけで難を逃れた。王政復古にともない紀州で禁固刑に処されたのち藩の参与や少参事を歴任。維新後、新政府で内務権大丞・元老院議官・貴族院議員・東京府知事などをつとめる。

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(平成某年某月某日識)

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