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坂本龍馬の目録

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新選組・見廻組(二)


肖像無  江戸出身。津藩藤堂和泉守の御落胤を自称する。永倉新八が伝えるところによると千葉周作の門下として「目録」を授かったともいうが、周作時代の門下でありながら『玄武館出席大概』に藤堂の名は見られない。ここは伊東甲子太郎の「寄り弟子」とされる説が無難だろう。近藤勇の試衛館にいつ頃から出入りしていたのか不明だが、文久三年に近藤らと浪士組に参加して上洛。京都残留後は最年少の幹部として活躍した。元治元年の池田屋事件では「真一番」に斬り込みをかけ眉間に傷をおっている。その後、江戸に下って伊東と接触。新選組参加への内諾を得る。慶応元年、八番組長の任にあたるも尊王攘夷の念から同三年、御陵衛士となる伊東らと新選組を離脱。伊東と同行し、龍馬・中岡慎太郎へ身辺を警戒するよう忠告を行ったという。
 同年一一月一八日、伊東の遺体を引き取りに向かった油小路にて新選組の待ち伏せにあい斬殺。

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肖像無  播州赤穂藩出身と伝わるは確証は無い。藩の老臣を斬り脱走。新選組への入隊は京坂での隊士募集に応募じたとも、伊東甲子太郎らと江戸で加わったともいう。元治元年一二月には尾形俊太郎の五番組に属し、慶応元年には諸士取調役兼監察の任につく。慶応二年、三条制札事件に出動して千疋の恩賞金をうけ、翌年には伊東らと新選組を離脱、御陵衛士をつとめる。
 同年一一月、龍馬暗殺の報を聞くや「たづぬべき人もあらしのはげしくてちる花のみぞおどろかれぬる」と詠み、この詩文稿を懐中したまま、新選組に斬殺された伊東の遺体を引き取りに油小路へ向かい、待ち伏せていた新選組と激闘を展開。服部は文字通り「獅子奮迅」の活躍をみせ、新選組の隊士十数名に傷をおわせたが大刀が折れたところを原田左之助の長鑓に突かれ討死した。剣術は北辰一刀流とする説もあるが油小路では二刀流をふるっている。

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肖像無  江戸一橋家々臣大石捨次郎の長男。剣術は小野派一刀流。元治元年、近藤勇の江戸での隊士募集に応じて上京、一番組に所属する。慶応二年、三条制札事件に出動し千疋の恩賞金をうけ、慶応三年の伊東甲子太郎暗殺にも活躍。つづく油小路事件にも参戦したが服部武雄のために負傷した。同年一二月、天満屋で三浦休太郎の警護中、龍馬・中岡慎太郎の仇討のため斬り込みをかけて来た海陸援隊士らと格闘。防戦につとめている。
 慶応四年、鳥羽伏見の戦いののち、江戸へ帰還。甲陽鎮撫隊にも所属したが流山から会津へ向かう途中に脱走した。のち薩摩軍探索方三井丑之助のもとを訪ねたが捕縛され、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺を一旦は下手人である旨を自白したものの、のちに拷問から逃れるためと証言を撤回。結局、小塚原で処刑された。俗に「人斬り鍬次郎」とも呼ばれ、また長男ではなく二男とする説もある。

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肖像無  京都出身。京都所司代組同心桂清助の長男。剣術は大野応之助に西岡是心流を学んだというから同じく見廻組の渡辺一郎とは同門にあたる。嘉永四年、京都所司代で内藤紀伊守組の同心並となり、安政四年には「是心流九ヶ条目録」を授かった。文久三年、八月一八日の政変に警備のため出動。翌年の池田屋事件にさいして、浪士召捕方として金五両の報奨金をうけている。また禁門の変でも禁裏御所へと出動し、慶応三年には見廻組並、ついで肝煎へと昇格した。同年の坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺には刺客の一人としてこれに加わり、物の正否はともかく龍馬を斬ったという桂の刀が現在も現存している。
 慶応四年、鳥羽伏見の戦いに見廻組の一員として参戦したが一月四日に戦死した。

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肖像無  江戸浅草出身。今井信郎の語るところによれば桑名藩士ともいう。渡辺一郎と混同されることもあるが別人。剣術は直心影流を男谷精一郎に学び、見廻組でも指折りの使い手であったと伝わる。余談だが見廻組では他に佐々木只三郎・今井信郎・渡辺一郎・桂早之助らを隊内での使い手として名を挙げる声を聞く。文久二年、小普請組から神奈川奉行支配定番役となり、元治元年には見廻組に加わった。今井が兵部省に語った供述よると坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺のさい、二階の部屋へ踏み込んだ刺客は「渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助」らであるとして、三名の名を挙げている。
 慶応四年、鳥羽伏見の戦いに見廻組肝煎として参戦。鳥羽から橋本等における戦場で負傷、のち五日に至るあいだに戦死した。

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肖像無  桑名藩の飛地、越後柏崎で寄合番をつとめる小林謙介の弟。父の名は小林甚七。慶応三年五月、見廻組に所属する世良家の養子となり「小林甚七」から「世良敏郎」へと名を改めた。この養父が如何なる人物か、正確な事はわからないものの見廻組に「世良吉五郎」なる人物がいるので、あるいはこの吉五郎を指すものかとも推測されている。渡辺一郎の著述した『渡辺家履歴書』によると同年一一月一五日、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に加わり、近江屋の現場へ鞘を落として来た人物は、この敏郎であるという。渡辺曰く「書物は少し読み候えども武芸のあまりなき者ゆえ、鞘を残し返」ったものらしい。しかし、そんな武芸劣等な隊士を刺客に選ぶものかと疑問視する声もある。
 敏郎について以後の事跡は詳らかでない。

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(平成某年某月某日識)

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