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 龍馬堂>>えにし>>その他(二) 
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坂本龍馬の目録

その他

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えにし

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坂本龍馬

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その他(二)


肖像無  京都の医師楢崎将作の長男で楢崎龍の弟。つまり龍馬から見れば義弟にあたる。元治元年、将作の死亡後、窮乏中だった楢崎家から龍馬の計らいにより、姉の楢崎君江と勝海舟の神戸海軍操練所に預けられる。翌年の慶応元年には操練所も閉鎖され、その後の足跡は詳らかでないが慶応三年になると海援隊の本拠地・長崎で、その姿を確認することができる。正式に海援隊に加わっていたわけでは無さそうだが、いろは丸事件の談判中、紀州船明光丸の船長高柳楠之助にあて手紙を届けるよう龍馬から使いを頼まれるなどし、龍馬の近辺で準隊士的な役割を担っていたものとも推測される。同年六月龍馬が土佐藩船夕顔にて京都へ上るさい、これに同行し、龍馬や長岡謙吉と共に材木商酢屋へ投宿。当時、十四歳だった同家の中川嘉兵衛から後年「少し威張り人なりし」と評されているが、その後の消息は伝わっていない。

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上野彦馬  長崎出身。上野俊之丞の二男。嘉永六年、豊後国日田の儒学者広瀬淡窓のもとへ入門し、余談だが同門から高野長英・大村益次郎らが出ている。安政三年、長崎へと帰郷し、オランダ通詞名村八衛門からオランダ語を、オランダ人・ポンぺから舎密学(化学)を学ぶ。また津藩の江鍬次郎と共にロシア人写真家・ロシエについて湿板写真術を研究。万延元年に津藩へ招かれ藩校有造館にて舎密学を教授した。のちに再び長崎へ戻り、我が国最古の化学書『舎密学必携』を文久二年に著述し、さらに日本初の写真館「上野撮影局」を開設した。慶応年間には龍馬をはじめとする多くの志士たちが上野撮影局を訪れており、主な人物だけでも後藤象二郎・桂小五郎・高杉晋作・伊藤俊助らの名が挙げられる。なお龍馬の有名な立像写真は上野の弟子で土佐藩出身の井上俊三による撮影とも伝わる。
 維新後、天体撮影や西南戦争の記録などに活躍し、下岡蓮杖と並ぶ日本写真術の開祖と称される。

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板倉筑前介  近江出身。農業をいとなむ儒者下坂篁斎の子。早くして近江を離れ、伏見街道で薬店をいとなむ。安政四年、醍醐家につかえ従六位下筑前介に叙任された。また尊王活動にも加わり文久二年には私財を投じて京都大仏日吉山へ文武館を建設、同所には龍馬をはじめ、武市半平太や中岡慎太郎・吉村虎太郎ら多くの志士が出入りし、天誅組・海援隊・陸援隊など諸隊に対しても資金の援助を行った。慶応三年一一月一五日、龍馬と中岡が暗殺される当日に近江屋を訪ね、寒椿の画を描いた掛軸を龍馬に進呈、この掛軸は暗殺のさい飛び散ったと見られる血痕が付着し、長岡謙吉の書した題字と共に今なお現存する。
 明治元年、醍醐家を辞し大津裁判所の参謀となり、続いて待詔院下局へ出仕。明治三年には内舎人権助をつとめ宮内中録へと転じたが同五年に退官、郷里で詩画の製作に余生を送った。贈正五位。

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左行秀  筑前出身。伊藤五左衛門の二男。天保年間に江戸へ出、清水久義のもと刀工術を学び、のちに左文字流を称す。弘化三年、土佐藩の御抱工関田勝広に招かれて土佐へ移住。翌年に坂本家の近所でもある水道町にて弟子の教育や作刀に励み、土佐藩の御抱工となった。龍馬や坂本権平・樋口真吉・吉田東洋など土佐で多くの人物が行秀の刀を佩刀し、現代では新々刀期を代表する名工としても知られている。同じく水道町に住す近藤長次郎と親しく、長次郎が江戸へ遊学に出たさい、事故で路銀を失っていた長次郎をみかね、何くれとなく便宜を計らい、その学費一切を支払ったという。慶応三年、乾退助から藩邸に水戸激派の浪士を匿まうよう依頼されるも、これを藩庁へ告げ、乾を切腹寸前まで追い込んでいる。
 維新後、刀工職を廃し居所を転々、失意のうちに大坂で亡くなったと伝わる。享年七十五歳。

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平野富二  長崎出身。矢次豊三郎の二子。三歳で父を亡くし、苦学ののち学者本木昌造に見い出され、汽船航海法などを学ぶ。慶応二年、幕府の回天丸へ乗り込み、四境戦争に参戦したが幕府の措置に憤り、長崎へ帰国したところ、慶応三年三月に龍馬のすすめで土佐藩船へ機関士として乗りくみ、機械操縦員の育成などにも尽力した。またイカルス号事件のおりに龍馬と同宿し、龍馬の「知遇を得て深く将来の運動上の事等を談合」したという。
 維新後、平野は本木のあとをうけて長崎製鉄所の所長となったが明治四年、同所が工部省へ移管されることに反対し辞職。その後、本木の長崎活版所や東京活版所の経営に協力し、印刷機械の製作に従事した。また明治九年、海軍省から石川島修船所を借り受け、石川島平野造船所と称し、鋼鉄や軍艦などの製造に活躍した。贈従五位。

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肖像無  紀州藩で酒造業や廻船業をいとなむ加納新左衛門の二男。宗七本人は安政四年の結婚を期に有本屋として独立、材木商などをいとなむ。同じ紀州藩出身のゆえか陸奥陽之助および、その兄 伊達五郎らと親しく勤王活動に参加。その縁で龍馬とも交わり、慶応三年に龍馬が暗殺されるや三浦休太郎が怪しいとの情報を陸奥に知らせ、海陸援隊士らに襲撃後の資金を分配し自らも天満屋へ斬り込みをかけている。
 維新後、海援隊士竹中与三郎を頼り、神戸の西之町に構えていた事業に成功。明治四年から八年のあいだ、私財を投じ、水害の多かった神戸生田川の河川敷を整備した。加納町と称される神戸市街の骨格を建造し、また加納湾と呼ばれる広大な避難港を設け、多くの船舶にも利用された。現在、神戸市中央区には加納宗七の小さな銅像が陸奥陽之助の書と一緒に現存する。

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(平成某年某月某日識)

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 龍馬堂>>えにし>>その他(二) 
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