鹿児島史跡記(一)
鹿児島史跡 H17.02.20
其之二
鹿児島史跡 H17.02.21
鹿児島史跡 H17.02.22
鹿児島史跡 H17.02.23
鹿児島史跡 H17.02.24
鹿児島史跡 H17.02.25
史跡廻国記
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
鹿児島史跡記(一)
鹿児島市を南北に流れる甲突川、この川に架せられた数多い橋の一つに高見橋がある。この橋のそばには大久保利通の銅像[右写真]と樺山資紀の邸宅跡をしめす石碑とがあり、維新ふるさと館から立ち寄るにも比較的近い距離にあたる。
加治屋町からでは道路をはさんだ向かい側・西千石町の範囲で右の写真を撮影後、そのまま高見橋をわたり鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)のある中央町へ移動。
ちなみに樺山資紀の邸宅跡について当方は、高見橋のそばではなく、高見馬場のそばと位置そのものを勘違いをしており、先にホテルから加治屋町へ向かう途中、高見馬場の交差点を10分近くもグルグル無駄に探しまわりました。結局、家に帰るまで勘違いしていること自体、気づきもしませんでしたけど。orz
まぁソンナことはどーでもいいので、橋をわたってからまず元治元年五月に訪薩した龍馬さんがそのさい御厄介にもなった「西郷南洲翁宅地跡」に足を運ぼう。現在、同地は一帯が公園化されており(名前は共研公園)、訪ねた日はちょうど日曜日だったこともあってか子供や老人のくつろぐ憩いの場という雰囲気だった。
その公園入口に件の西郷南洲翁宅地跡をしめす碑[左下写真]があるわけだが、とりあえず「ここで龍馬さんは寝そべって漢籍を読んだり、褌を借りたり、碁を打ったり、雨漏りを体験したりしてたわけか」などと思考めぐらし公園内を一廻りする。
西郷どんが加治屋町の生家から同地へ移り住むことになった切っ掛けは、安政三年の出府随従で江戸における滞在費が必要になったためという。この出立にさいし加治屋町の生家を売却した西郷家は同地の借家へと移り以後、明治二年に武村へ転居するまでここに滞在をつづけた。
撮影後、ふと「既存の家屋を借家として借り受けたために、建物自体の傷みも激しく、それが原因で雨漏りでもしてたのかね?」とテキトーな理屈を考えながら、いささか長居しすぎた同地を離れ、龍馬さんも歩いたであろう界隈を、その寓居跡からぼちぼち散歩に出かけよう。
共研公園からやや北東の位置、京都市風にいうなら高麗橋ナポリ通り西入ル北側に「大久保利通誕生地」跡[右写真]がある。先に立ち寄った加治屋町にも「大久保利通君誕生之地」碑(大久保利通生い立ちの地)なるモノはあったが、誕生地という点で正確なのは高麗町にあるコチラの方。
大久保利通は天保元年八月一〇日、鹿児島の城下高麗町に生まれ、間もなく加治屋町へと転居し、やがて文久三年には新照院町へ再転居する。
加治屋町を「生い立ちの地」とする由縁は、青少年時代を同地で過ごしたという点に由来するが「大久保利通君誕生之地」碑は、建立当時(明治二十二年)に存在したという加治屋町誕生説によった刻字らしい。
ここは「結果的に、同じ話題で二つも石碑ができたんだから本人的には儲けもんだよな。オイシイ、オイシイ」とポジティブにでも捉えてあげよう。・・・フォローにもなっちゃいないが。
(平成某年某月某日識)