鹿児島史跡記(一)
鹿児島史跡 H17.02.20
鹿児島史跡 H17.02.21
其之四
鹿児島史跡 H17.02.22
鹿児島史跡 H17.02.23
鹿児島史跡 H17.02.24
鹿児島史跡 H17.02.25
史跡廻国記
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
鹿児島史跡記(一)
市電を交通局前で下車し、同局から西の甲南中学校までまず移動。正門の向かってすぐ左手には徳富蘇峰撰・三方限出身名士顕彰碑[表右下写真]がある。この写真の右手前に見える立て看板には出身者48名の名が記されており、名簿におこしてみると↓以下のようになった。
三方限出身名士顕彰碑 説明板出身者 | |||||||
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西郷隆盛 | 町田次郎四郎 | 野津鎮雄 | 讃良清蔵 | ||||
西郷小兵衛 | 岩元平八郎 | 有村雄助 | 江夏仲左衛門 | ||||
伊地知幸助 | 永山弥一郎 | 伊集院彦吉 | 奈良原喜左衛門 | ||||
高島鞆之助 | 辺見十郎太 | 仁礼景範 | 山口金之助 | ||||
渕辺高照 | 西郷吉次郎 | 中原猶介 | 野津道貫 | ||||
伊集院兼寛 | 大久保利通 | 山之内一次 | 有村次左衛門 | ||||
長沢鼎 | 篠原国幹 | 法亢宇佐衛門 | 益満休之助 | ||||
奈良原繁 | 吉井友実 | 山之内作次郎 | 川村純義 | ||||
井上良馨 | 松永清之丞 | 西郷従道 | 深江直之進 | ||||
関勇助 | 吉田清成 | 伊地知正治 | 西寛二郎 | ||||
河野主一郎 | 山沢静吾 | 三島通庸 | 辺見仲太 | ||||
田中十太郎 | 種子田左門 | 大山綱良 | 有馬一郎 |
一般レベルにも知られていそうな名前から、地元民か余程の薩摩ニア(薩摩マニア)でもない限り、知りもしないような名前まで様々な人物名が散見できる。一見したところでは「どういう順序で並んでるんだ。この名前は?」との一寸ずれた感想を抱いた。
ちなみにここでいう三方限の「方限(ほうぎり)」とは、薩摩藩における居住区画の名称で数十戸から一方限を形成する今でいう町内会のようなもの。
「郷中教育(ごじゅうきょういく)」という薩摩藩独特の教育制度では今でいう学区のような機能をになっており、同一方限からこれだけ沢山の名士を出したことは、ただ方限にとっての名誉というだけでなく「教育水準の高さ」しめす絶好の証明ともいえるだろう。
少なくとも学校のわきに顕彰碑が建っている時点で「そういう意味もあるんだろうな」と理解した。
「そういえば昨日行った後醍院真柱出廬之地碑の近くにも四方限の顕彰碑なんてのがあったっけ。こっちとあっちじゃ大きさも段違だけど」と考えているうちに着いた場所が中原猶介宅跡碑[左下写真]。位置は甲南高校敷地内南側。できれば碑の近くで撮影をしたいところではあるが校内へ勝手に侵入するわけにも行かないので(ちょうど先週2月15日には大阪府でとある学校侵入事件が発生していたばかり)御覧の通りフェンス越しに碑を撮影する。
中原猶介は薩摩藩屈指の洋学者で集成館事業にも深くかかわった人物。かつては江戸の江川英敏(太郎左衛門英龍の息子)塾で塾頭までつとめたが、戊辰戦争長岡戦線で遭えなく戦死した。
宅地跡の碑は元来同校の正門付近にあったものを校舎の改築にともない同所へ移転したものという。そのため一応、本来の場所である北側の正門へまわり同所を確認撮影後、一旦昼食をとるため鹿児島中央駅まで移動する。時刻は既に午後1時半をまわろうかというところ。
とりあえず駅近くの商店で「げたんは」なる郷土菓子を購入し、これを食う。食感をべつにすれば味自体は黒糖麩菓子にも似た素朴な風味。一緒に買った緑茶を飲みつつ、前後あわせて10分ほどの休憩をとり次の目的地へ移動開始。
鹿児島中央駅の西側に位置する武地域には明治六年の政変後、西郷隆盛が移り住んだ「西郷屋敷跡」がある。現在、同所は公園化されており、案内版のほか当時の井戸や西郷隆盛・菅実秀の対座像[右写真]などが設置されている。
「幕府側を挑発し開戦に結びつけた狡猾な手腕とは裏腹に、こんな感じの落しどころを心得ているあたりが大西郷の由縁かね」と像をまえに暫し考える。
ついで西郷公園から南西に約10分前後の距離にある田上橋の手前まで移動。ここでは田上水車館の跡を探すものの肝心の碑が見つけられない。手もとの参考資料によれば、新道と旧道との交差点に付近に件の碑はあるらしいのだが、10分近く探してみても影も形も見当たらない。しょうがないので一度来た道をもどり、今度は駅北西の西田小学校まで移動する。
今度は薩英戦争の本陣「千眼寺」の跡をもとめて西田小学校に到着。ふたたび手もとの資料によると場所は西田小学校の隣、鶴丸高校の裏手としか書いていない。「何だかまた見つけられないような気がして来た」とあきらめムードのまま学校の廻りを2週半し、今度は西郷家の墓地へ歩を転じる(つまり探すのは諦めた)。
しかし墓地へ向かう途中、運良く千眼寺跡[左写真左]の碑を発見。「少なくとも小学校の隣ではないよな。この場所って」と手もとの資料に不満を抱きつつ同所を撮影。案内板の説明を読み終え、ふたたび西郷家の墓地へ向かう。
左写真右側の西郷家墓地には主に西郷隆盛の家族(親兄弟妻など)が葬れている。墓域のおくにある高知県出身の元首相 吉田茂の撰文墓をまえに黙祷をささげ、龍馬が西郷家に滞在中お世話になったことなどに感謝し墓地をはなれた。とりあえずこのまま道を北上する。
(平成某年某月某日識)