鹿児島史跡記(一)
鹿児島史跡 H17.02.20
鹿児島史跡 H17.02.21
其之二
鹿児島史跡 H17.02.22
鹿児島史跡 H17.02.23
鹿児島史跡 H17.02.24
鹿児島史跡 H17.02.25
史跡廻国記
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
鹿児島史跡記(一)
天保山中学校から天保山町へ進んでゆくと、やがて左手北側に調書笑左衛門広郷の像[左写真]が見えてくる。私が中高生だったころは長州の村田清風らとともに、教科書にも名が登場した人物だけに知名度ならば全国的にみても高い人物と思われる。
茶坊主という下級職から身を立て家老職までのぼり、苛烈な政策でもって藩財政をたてなおした評価・好嫌ともにむずかしい人物。碑文に印される「歴史は時の為政者によって作られる。調所広郷は幕府に呼ばれ、密貿易の罪を負い、自害に追い込まれ、今も汚名のままである」との文字が、この人物の歴史的評価を象徴しているような気はした。
「薩摩藩の天保改革を推進し、一面で領民を圧し、他面において幕末の資金源を湧出する。財政偏重、人心に対し侮慢のきらいがなかったとも言えない。ゆえに斉彬派の指弾を受ける。単眼視では見られない現実・歴史とは今更ながら皮肉ですな」と銅像を行き過ぎ、そのまま天保山公園の敷地内へすすむ。
天保山の地名は鹿児島のほか大阪や愛知にも見られ、天保年間、土砂を積み上げつくられた「人工の山」という点が共通項らしい。鹿児島の場合、河川交通の整備や氾濫防止のため同地区がうまれた。
公園には他の沿岸要衝地同様、藩政時代の台場跡[右写真一段目]がのこり、なかでもこの台場は薩英戦争の口火をきった記念すべき台場としても知られる。一見したところ同じ台場だけあって、唯一実見したことのある須崎(高知県)の台場跡と似たような印象をうけた。
今では所々に遮蔽物の目立つ海岸方向を台場跡から眺めながら公園を南下。支那風休憩所(共月亭)を尻目に公園を出ると、間もなく「坂本龍馬新婚の旅碑」[右写真二段目]が右手東側に見えてくる。
この像は「新婚の旅碑」という銘が示すとおり、龍馬と妻お龍の鹿児島新婚旅行を記念して昭和55年、藩政時代の御船手跡にちなみ同地へ建立されたもの。平成15年には落書きの被害を受けることもあったが、今ではその落書きもすっかり消され、本来の姿を取り戻している。
とりあえず「落書きは精々、教科書の写真くらいまでに止めておいて欲しいもんだがな」と思いつつ銅像を撮影。「ほんと、折田先生像でもあるまいに」と愚痴をこぼしたくなりながら旅碑をはなれる。
ちなみに私が今回の旅行で立ち寄れた龍馬像はこれが唯一。鹿児島県内にはこのほか姶良郡牧園町塩浸温泉に「坂本龍馬・お龍新婚湯治碑」が、同じく姶良郡隼人町妙見温泉には「坂本龍馬釣り姿像」がある。
新婚旅碑前から西へ歩を転じ、市電の走る大通りまで約1kmの距離を暫しのあいだ歩く。大通りの荒田八幡電停そばに出たところで今度は道を南へ転じ、騎射場電停を少しすぎた鴨池福祉館まえへ到着。ここには製薬局跡・紅硝子製造所跡・騎射場跡を一括でしめす石碑[右写真左]が写真の通り置かれている(なお写真左側にみえるのは共学舎の跡をしめす石碑)。
地名がしめしているとおり、同地はかつて藩主が騎射場(流鏑馬・笠懸・犬追物など)として抱えこんだ用地で、斉彬の父 島津斉興の代には製薬局が、弘化三年には薬容器として必要なガラス瓶の製造所が設けられた。
紅ガラスに代表される色ガラスの製造は長男・斉彬の代に始められたもので、斉彬はその品質の向上につとめ、硬質ガラスや船舶用板ガラス、カットグラスなどの製造もおこなった。ちなみに当時、日本で紅ガラス製造に成功したのは薩摩一藩だけで、これは「薩摩切子」の名で今現在も知られる工芸芸術品である。
鴨池福祉館をやや下ると鴨池公園という小さな公園にぶつかる。ここにはむかし家老島津豊後の別邸があり、その豊州島津家が黒木(現薩摩郡さつま町)の地を領していたことから黒木屋敷とも呼ばれた。のち第二十九代藩主島津忠義が同屋敷内の池を拡張し、鴨猟をおこなったことから今の地名「鴨池」がある。なお右上写真右はその鴨池の跡をしめす石碑。
(平成某年某月某日識)