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鹿児島史跡記(一)

鹿児島史跡 H17.02.20

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鹿児島史跡 H17.02.21

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鹿児島史跡 H17.02.22

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鹿児島史跡 H17.02.23

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鹿児島史跡 H17.02.24

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鹿児島史跡 H17.02.25

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鹿児島史跡 H17.02.21(一)


鹿児島市松原町 → 南林寺町

南洲寺

月照墓

月照像

 2月21日、旅行2日目。この日はまず鹿児島市内の南方方面へ向かうことにして「あとの順路は時間しだい」と午前7時過ぎにホテルを出立、国道225号線をくだって松原町まで移動する。

 現在、松原町となっているこの一帯もかつては大門口町と呼称され、それは島津家十五代貴久の創建による南林寺の大門口に由来する。

 いまは埋め立てのため海岸線までいくぶんかの距離もうまれたが、藩政当時は沿岸の要地にもあたり、島津斉興(島津家二十七代目当主・薩摩藩十代目当主)・調書笑左衛門らによって台場が設けられている。

 大門口の交差点ちかくには台場跡をしめす碑が残ると聞いてやって来たが、私の探し方が悪いのか結局見つけることもできず、すごすごと退散。交差点から再び国道へもどり、やや南にある南洲寺へ移動する。

 「町名は南林寺町なのに今に残るのは南洲寺のみ。廃仏毀釈の後先とはいえ、ほんと諸行無常」と南洲寺の門前[右写真一段目]を撮影し、敷地内に入ってすぐ右手、月照の墓[右写真二段目]と当人の石像[右写真三段目]とを詣でる。

 かつて月照の遺骨は南林寺にあった西郷家墓域内に埋葬秘匿されていたが、明治十二年に改葬され今の南洲寺境内へと移った。なお西郷隆盛の雅号「南洲」に由来する「南洲寺」の名は明治四十二年に許されたもので、明治二十二年の西郷追贈(贈正三位)から計算上二十年後ことになる。

 参詣後「そういえば、オレって月照が住持した清水寺成就院や京都にある月照の墓には行ったことないな。清水寺自体、高校の修学旅行で行って以来、御無沙汰してるし」などと考えつつ、南隣にある南林寺由緒墓へ移動。

南林寺由緒墓

 この由緒墓は南林寺に埋葬されていた無縁仏のうち、郊外に移転されずに残った志士や剣客、文人や学者などを中心に再改装したもので、現在は43基の墓があるという。

 墓標に刻字は風化や劣化のため判別しにくいものが多く、予備知識も入れずにやってきた私には、どれが誰の墓なのか殆ど理解できななかった(後日、書店で参考になりそうな資料がないかと探したが結局手掛かりは見つけられずに終わる)。

 「イマイチよく解らんが、とりあえず皆まとめてお参りしておくか」と、墓の入口で埋葬者全員に合掌。逆にバチ当たりな気もするが敢えて気にしないことにする。「大事なのは志ですよ、志」とか思うことにして。

 関連リンク:南洲寺(僧月照の墓)訪問記

鹿児島市新屋敷町 → 下荒田

乃木静子誕生地跡

 南林寺町から暫く南西方向に道をくだり、武之橋のそばにある緑地公園まで移動する。鹿児島授産場の跡をもとめ当緑地公園までやって来たのだが、意中の史跡より先に乃木希典大将夫人 乃木静子(湯地お七)の誕生地跡を発見した。

 右写真の手前にみえる説明板には乃木静子の座像写真が添付されいるのだが、御覧のとおり台座のうえはもぬけの殻、肝心の座像がみえない。「戦前の金属供出令で回収でもされたのか?」と勝手に憶断しつつ、近場に鹿児島授産場の跡がないか探したがやっぱりみつけられない。しょうがないので下荒田方面へ向かうことにする。

松方正義誕生之地碑

 松方橋をわたり西へ一区画すすみ、真っすぐ道を南へ下ると今度は右手に松方公園という小さな公園がみえてくる。ここは第四代・六代の内閣総理大臣 松方正義誕生の地で、今はその碑[左写真]と松方正義について書かれた説明板とが設置されている。

 講談社学術文庫版『海舟語録』を読んで以来、個人的に松方政権というと「海舟が擁護していた政権」とのイメージが強い。「勝さんってば、陸奥なんかもいる第二次伊藤内閣には辛口なのに松方内閣には比較的甘いだよな」と拗ねたこと思う。

 んで、公園から出たところで見知らぬおじさんから「学生さんですか、精が出ますね」と軽く挨拶をうけるものの、わざわざ「いやじつは学生じゃないんです」と訂正する気にもならなかったので「はい、趣味で少々史跡を調べてまわってます」と二、三の会話をかわし天保山橋のたもとへと改めて向かう。無論、他意のない。

島津斉彬公御陣屋跡の碑

 この天保橋付近にはかつて藩船を管理をする御船手の役所と、それにともなう水主や船頭・船大工らの寄宿屋敷が置かれていた。「龍馬さん達も後学のため見学に来てたかもわからんね」とあたりに御船手役所跡の碑がないか数分ばかり探したが、結局石碑は見つけられぬまま次なる史跡「島津斉彬公御陣屋跡」の碑[左写真]へ移動する。

 島津斉彬はここで上洛を期した練兵の最中に倒れ不帰の客となった。ある意味「ここは幕末史にとっても、一つのターニングポイントだったのかも知れんな」と思ったりもする。

 天保山中学校の敷地内に建つ碑をデジカメにおさめ、かつて練兵場があったとは思えないほど様変わりした周辺をグルりと見廻し、天保山公園のある方向へと歩をすすめよう。

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(平成某年某月某日識)

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