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鹿児島史跡記(一)

鹿児島史跡 H17.02.20

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鹿児島史跡 H17.02.21

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鹿児島史跡 H17.02.22

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鹿児島史跡 H17.02.23

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鹿児島史跡 H17.02.24

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鹿児島史跡 H17.02.25

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鹿児島史跡 H17.02.23(一)


鹿児島市中央町→薩摩郡さつま町

 2月23日、旅行4日目。午前6時起床。もともとこの鹿児島行きは仕事での出張に事よせたもので、20〜22日間は書き込みで省いてはいるものの、この日のメインは仕事に関することがもっぱらなので史跡巡りはほぼ小休止。

 それでも仕事の道々に見かけた史跡が3カ所ほどあったのでそれだけでもデジカメに撮影。下がその3カ所、一応掲載。

若き薩摩の群像

■1.鹿児島市中央町
 鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」。文久三年の薩英戦争をへて、イギリスとの接近をすすめる薩摩藩が彼の国に派遣した留学生ほか一同の銅像。

 派遣されたメンバー19名(使節団員3名+通訳官1名+留学生15名)のうち、銅像になっているのは新納久脩・寺島宗則・五代友厚(ここまで使節団員)・町田久成・鮫島尚信・中村博愛・吉田清成・町田実積・市来和彦・村橋久成・畠山義成・名越時成・田中盛明・森有礼・東郷愛之進・町田清次郎・長沢鼎(ここまで留学生)の全17名。

 うちオハジキにされているのが通訳官で長崎出身の掘孝之、土佐脱藩で留学生の高見弥一。高見弥一は文久二年、藩の参政吉田東洋暗殺に参加し脱藩、長州藩に匿われたのち薩摩藩に庇護され奈良原喜八郎と親しく交際、のち奈良原家の養子となった人物。前名を「大石団蔵」という。

 この2名が銅像の選から漏れたのは「薩摩人じゃないから」という単純明快な選考基準(?)ゆえ。銅像一体造るだけでも相応の費用はかかるわけだし、それはそれで納得しないこともない。
 もっとも、個人的には「銅像を造るだけの心意気があるなら、もうひと頑張りして欲しい」とは思ったりもする。

郷校盈進館
■薩摩郡さつま町宮之城屋地
 現在は町村合併によりさつま町となった旧宮之城町。写真の盈進小学校は、かつて島津図書久治によって郷校盈進館がもうけれた場所。なお久治は島津久光の息子で、12代藩主忠義の弟にあたる。
楠木神社
■薩摩郡さつま町宮之城屋地
 旧宮之城町、現さつま町にある楠木神社。かつて、有馬新七が楠木正成の菩提寺から貰い受けたという木像が御神体になっている。
 せっかくなので境内の奥を確認しようかとも思ったが、なにか壊しでもしたらシャレにならんのでとりあえずは止めた。

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(平成某年某月某日識)

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