短歌篇(坂本龍馬)
ゑにしらが〜
面影の〜
かくすれば〜
かぞいろの〜
君が為〜
くれ竹の〜
さよふけて〜
常盤山〜
春くれて〜
挽臼の〜
藤の花〜
又あふと〜
丸くとも〜
道おもふ〜
もみぢ葉も〜
山里の〜
ゆく春も〜
和歌を単線上に現代語訳するのは事実上不可能なので「大意」は半ば逐語訳です。
歌の風韻や詩情は原文から各々で構築しなおすことをオススメします。というか、してください。
五月はサツキと訓む。卯月と水無月のあいだ。季節のうえでは夏なかば。仲夏。
始音(はつこえ)の用例は、『万葉集』の時代からすでにホトトギスにたいしみえる[3]ので、概念的にはかなり古くからのもの。
深山の訓みはミヤマ、深い山奥。
べは辺、あたり。奥深い山のあたり。
春くれて五月まつ間とみえるので、春(一〜三月)の終わった五月待ちの期間、四月の詠作とみてまず間違いあるまい。文久三年四月というと、明確な場所だけでも江戸・福井・大坂・和歌山へ龍馬は足をはこんでおり、
深山べの里を重視するなら、城下町など比較的ひらけた場所で詠作し、「奥山の里に隠れていなさい」と出てきたホトトギスに呼びかけたものだろうか。場所の特定には決めてがない。
しのべを、思いはせる「偲べ」の意味に解したこともあるが、今はその不明を恥じる。では
しのべを「忍べ」に解したとして、これを「隠せ」の意とするか、「堪えよ」の意とするかが、つぎは問題になる。前者であれば「山里で隠れて待て」の意味になるし、後者なら「山里で我慢して待て」の意味になる。どちらも「時期を待て」とする趣旨はおなじだが、表現としての趣きがことなり、受ける印象もちがう。「忍び音」・「忍び泣き」・「忍び足」など、構成のおなじい複合語には、「人に知られないように」といった「隠す」的な意味合いがつよく、ここでの脈絡も前者にふれるのが妥当だろう。ホトトギスは花木の陰に隠れ鳴くものとされ、その植物には菖蒲 [7]や橘 [8]、卯の花 [9]などが想定される。当歌は「忍び音」と直接文字にしないでそれを暗示し、「卯月」(四月)と明示しないで時期をしめす手法から、隠れて待つべきのところは、山里での卯ノ花かげあたりを意図するのだろう。表現に露骨さがなく、奥ゆかしく柔らかな印象を私的にはうける。
たれにより松をもひかん鴬のはつねかひなきけふにも有るかな
郭公おもひもかけぬ春なけばことしぞまたで初音ききつる
常人毛起都追聞曽霍公鳥此暁尓来喧始音(常人も起きつつ聞くそホトトギスこの暁に来鳴く初声)
卯月の朔日比、内より女房ともなひて時鳥ききにとて、西園寺にまかれりけるに、初声聞て読侍ける西園寺実氏
郭公たつねにきつる山里のまつにかひある初音をぞきく
四月ばかりに物言ひ初めける人の、五月まて忍ひけるに遣はしける藤原実方
忍ひねのほとは過にき郭公なににつけてか今はなかまし
ほととぎすあやめのねにもあらなくに五月をかけてなどまたるらん
またぬ夜もまつ夜もききつ子規花たちはなの匂ふあたりは
なくこゑをえやはしのばぬ郭公初卯花のかげにかくれて
(平成二一年五月一三日識/平成二四年二月五日訂)