短歌篇(坂本龍馬)
うき事を〜
ゑにしらが〜
面影の〜
かくすれば〜
かぞいろの〜
君が為〜
くれ竹の〜
さよふけて〜
常盤山〜
挽臼の〜
藤の花〜
又あふと〜
丸くとも〜
道おもふ〜
もみぢ葉も〜
山里の〜
ゆく春も〜
和歌を単線上に現代語訳するのは事実上不可能なので「大意」は半ば逐語訳です。
歌の風韻や詩情は原文から各々で構築しなおすことをオススメします。というか、してください。
□部分が脱字。ここに複数の文字が脱漏しているとは考えにくいので、旅につづく一字三音節の歌語 [1]を何か想定しなければならない。候補としては「旅衣」と「旅枕」があげられ、勅撰集に用例数の多寡をもとめるのなら「旅衣」に、意味のつながりを重視するなら「旅枕」へ軍配があがる。ここでは意味のつながりを重視したい。
とぞに上接する名詞用法とうけとる。物悲しい、さびしい。ちなみに歴史的仮名遣いでは「あはれ」。
湊川訪問後の配列となれば、時期も自然にかぎられてくる。龍馬の山陽すじ往来は判然とするかぎり同年以降になると、東行(歌の配列とは道順が逆)であったり、船使用であったり、歌群のならびにそぐわない例ばかりで、ここでは除外するのが妥当だろう。また文久三年以前には、乙女との文通がそもそも始まっておらず、
姉乙女子へ示せる和歌との作品前提 [3]が成りたたない。ここでは考慮の外におく。
うき事を独明しというものの、二度の明石滞在はいづれも仲間づれの訪問 [4]であって、何も一人できたわけではない。夜をひとり徹したと敢えてことわる背景には、さきに寝入った仲間たちがいるのだと逆理的にみておく。では龍馬がこの時かかえていた憂い事とはなんだろうか。仲間たちをわきにおいて、ひとり悩まねばならぬ点に考察上なにかヒントがありそうだ。以下はもとより推測でしかいえないのだが当時、龍馬周辺に問題をさがすと、土佐藩における青蓮院宮令旨事件が一大事として私的には思いあたる。同事件は間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太らの三士が、わたくしに青蓮院宮朝彦親王にたいし令旨を強要したと処断された事件で、六月八日がその切腹日にあたる。仮に当歌を六月あたまの詠作とすれば、友人たちの審問を意識・危惧しての歌になるだろうし、下旬ごろの制作とすれば、
平井の収次郎ハ誠にむごいむごい(じうもんじカ)。いもふとおかをがなげきいか斗か、ひとふで私のよふすなど咄してきかしたい。まだに少しハきづかいもする(六月二九日付乙女宛書簡)あたりに
うき事の真意があるとみたい。前者では審問の終局が間近(平井収二郎が入牢したのは五月二四日)に迫っていることを龍馬が明石滞在時に知りえたかどうか微妙なところで、明石という歌枕や龍馬が個人的に独り明したという表現上の力点を重視し後者、つまり平井加尾にたいする
きづかいの線で私は解したい。明石は万葉の昔から [5]多くの歌によまれる名所だけあって、内包されるイメージも地形 [6]から天象 [7]までさまざまであるものの、中古に『源氏物語』が世に出て以降、その影響をうける作品 [8]が多く、物語における明石は、主人公光源氏が憂き失意のまま須磨につづいて隠棲した地として描かれている。源氏はここで明石の御方と契る一方、月夜には故郷の都にのこした紫の上をわすれずに日々をおくった。龍馬がそんな本説取り [9]を意識的に実行したのかはわからないが、坂本家に根づく和文の教養 [10]であれば、明石から想起されるイメージの一つに恋愛的なものも含まれてはいるだろう。
天離夷之長道従戀来者自明門倭嶋所見(天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ)
夜をこめてあかしのせとをこき出れははるかに送るさをしかのこゑ
書写の聖に会ひに播磨の国におはしまして、明石といふところの月を御覧して花山院
月影はたひの空とてかはらねとなを宮このみこひしきやなそ
明石かた色なき人の袖をみよすゝろに月もやとるものかは(
色なき人の袖とは無位無官になっていた光源氏を暗示する)
(平成二一年五月一三日識/平成二四年二月四日訂)