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短歌篇 うき事を〜


和歌を単線上に現代語訳するのは事実上不可能なので「大意」は半ば逐語訳です。
歌の風韻や詩情は原文から各々で構築しなおすことをオススメします。というか、してください。

明石にて
うき事を 独明しの 旅□ 磯うつ浪も あわれとぞ聞
●大意:やりきれない思い抱え、ひとり居明かす明石の旅寝。磯にうちかかる波の音すら悲哀となって聞こえてくる。
明石……播磨国の名所歌枕。瀬戸内海に面して淡路島とむかいあう地。
●うき事……しずみがちな負の感情をあらわす形容詞「うし」の連体形に、複合し体言を構築する形式名詞「事」がくっついた形。憂い事、嫌な事、厭わしい事、辛い事。
●明し……動詞「明かす」の連用形に、地名「明石」を掛ける。徹夜し、夜を徹し。
●旅□……「坂本龍馬桂小五郎遺墨」収載本文は部分が脱字。ここに複数の文字が脱漏しているとは考えにくいので、旅につづく一字三音節の歌語 [1]を何か想定しなければならない。候補としては「旅衣」と「旅枕」があげられ、勅撰集に用例数の多寡をもとめるのなら「旅衣」に、意味のつながりを重視するなら「旅枕」へ軍配があがる。ここでは意味のつながりを重視したい。
●旅枕……旅でする枕、旅寝。
●磯……波打ち際、浜辺の岩礁。
●あわれ……本来は感動詞だが、ここではとぞに上接する名詞用法とうけとる。物悲しい、さびしい。ちなみに歴史的仮名遣いでは「あはれ」。
●とぞ……比喩・仮定・名目などをしめす格助詞「と」に、上接文を強調する係助詞「ぞ」のついた形。
●原本:京都国立博物館蔵「坂本龍馬桂小五郎遺墨」/底本:宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』
●時期:文久三年六月下旬ごろか
●解説

平成20年5月22日、舞子台場ちかくより明石海峡を撮影

 龍馬の明石滞在が史料から確認できるのは、文久三年五月三〇日から翌六月一日と同年六月二五日の二回である。七月には同所滞在の四条隆哥訪問のため、三たび明石行きの可能性ならあったが、これが実際実現したかは不明である。他歌の解説 [2]などでも述べているように「坂本龍馬桂小五郎遺墨」第二歌群は、詠作順に配された蓋然性がたかく、前歌「月と日の〜」にみえる湊川訪問後の配列となれば、時期も自然にかぎられてくる。龍馬の山陽すじ往来は判然とするかぎり同年以降になると、東行(歌の配列とは道順が逆)であったり、船使用であったり、歌群のならびにそぐわない例ばかりで、ここでは除外するのが妥当だろう。また文久三年以前には、乙女との文通がそもそも始まっておらず、姉乙女子へ示せる和歌との作品前提 [3]が成りたたない。ここでは考慮の外におく。
●鑑賞
 歌は鬱情のまま旅先の明石で一人夜明かし、聞こえてくる波音にすら情緒をかきたてられる様をうたっている。上記の語句説明で脱字と想定した「旅枕」だが、似たような歌語の選択肢に、ふるいものでは「草枕」がある。詩歌は時に比喩や虚構をまじえて情感をつけるものだが、龍馬の推敲はここで写実的な「旅枕」へおちついたとみたい。歌ではうき事を独明しというものの、二度の明石滞在はいづれも仲間づれの訪問 [4]であって、何も一人できたわけではない。夜をひとり徹したと敢えてことわる背景には、さきに寝入った仲間たちがいるのだと逆理的にみておく。では龍馬がこの時かかえていた憂い事とはなんだろうか。仲間たちをわきにおいて、ひとり悩まねばならぬ点に考察上なにかヒントがありそうだ。以下はもとより推測でしかいえないのだが当時、龍馬周辺に問題をさがすと、土佐藩における青蓮院宮令旨事件が一大事として私的には思いあたる。同事件は間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太らの三士が、わたくしに青蓮院宮朝彦親王にたいし令旨を強要したと処断された事件で、六月八日がその切腹日にあたる。仮に当歌を六月あたまの詠作とすれば、友人たちの審問を意識・危惧しての歌になるだろうし、下旬ごろの制作とすれば、平井の収次郎ハ誠にむごいむごい(じうもんじカ)。いもふとおかをがなげきいか斗か、ひとふで私のよふすなど咄してきかしたい。まだに少しハきづかいもする六月二九日付乙女宛書簡)あたりにうき事の真意があるとみたい。前者では審問の終局が間近(平井収二郎が入牢したのは五月二四日)に迫っていることを龍馬が明石滞在時に知りえたかどうか微妙なところで、明石という歌枕や龍馬が個人的に独り明したという表現上の力点を重視し後者、つまり平井加尾にたいするきづかいの線で私は解したい。明石は万葉の昔から [5]多くの歌によまれる名所だけあって、内包されるイメージも地形 [6]から天象 [7]までさまざまであるものの、中古に『源氏物語』が世に出て以降、その影響をうける作品 [8]が多く、物語における明石は、主人公光源氏が憂き失意のまま須磨につづいて隠棲した地として描かれている。源氏はここで明石の御方と契る一方、月夜には故郷の都にのこした紫の上をわすれずに日々をおくった。龍馬がそんな本説取り [9]を意識的に実行したのかはわからないが、坂本家に根づく和文の教養 [10]であれば、明石から想起されるイメージの一つに恋愛的なものも含まれてはいるだろう。

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  1. mark_utarnhotyu.png 歌詞。日常語としてはまず使われない、とくべつ和歌でもちいられる言葉。
  2. mark_utarnhotyu.png文開く〜」および「世の人〜」参照。
  3. mark_utarnhotyu.png文開く〜」参照。
  4. mark_utarnhotyu.png 五月三〇日から六月一日の同行者・滞在者には勝海舟・佐藤与之助・沢村惣之丞・安岡金馬・黒木小太郎らがいて、六月二五日には佐藤与之助・高松太郎らがいる。
  5. mark_utarnhotyu.png 例歌:『万葉集』柿本人麻呂天離夷之長道従戀来者自明門倭嶋所見(天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ)
  6. mark_utarnhotyu.png 例歌:『千載集』俊恵夜をこめてあかしのせとをこき出れははるかに送るさをしかのこゑ
  7. mark_utarnhotyu.png 例歌:『後拾遺集書写の聖に会ひに播磨の国におはしまして、明石といふところの月を御覧して花山院月影はたひの空とてかはらねとなを宮このみこひしきやなそ
  8. mark_utarnhotyu.png 例歌:『新古今集』藤原秀能明石かた色なき人の袖をみよすゝろに月もやとるものかは色なき人の袖とは無位無官になっていた光源氏を暗示する)
  9. mark_utarnhotyu.png 詩歌詠作のさい、詞句の典拠や発想を物語や説話から拝借してくる手法のこと。本歌取りの散文版。
  10. mark_utarnhotyu.png 坂本家は先祖直益以来、和文・国学の嗜みがふかく、龍馬の祖母久・父八平・兄権平らには当時の歌集で入選歌が知られている。ちなみに久の父にあたる(龍馬からみれば曾祖父)井上好春には、『源氏物語 雨夜の立聞』なる著書が存在する。

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(平成二一年五月一三日識/平成二四年二月四日訂)

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