短歌篇(坂本龍馬)
ゑにしらが〜
面影の〜
かくすれば〜
かぞいろの〜
君が為〜
くれ竹の〜
さよふけて〜
月と日の〜
常盤山〜
挽臼の〜
藤の花〜
又あふと〜
丸くとも〜
道おもふ〜
もみぢ葉も〜
山里の〜
ゆく春も〜
和歌を単線上に現代語訳するのは事実上不可能なので「大意」は半ば逐語訳です。
歌の風韻や詩情は原文から各々で構築しなおすことをオススメします。というか、してください。
湊川にてと題で場所を明示して、初句と二句目で
月と日のむかしをしのぶとうたいおこす。名所歌枕として中古以来、勅撰集にも名のみえる湊川だが [4]、当時もいまも一般人が同地より真先に思いうかべるのは、正成ら楠木氏が玉砕をとげた『太平記』的世界観だろう。延元元年および建武三年(1336年)五月二五日、合戦のありし往時への懐古から日月の御旗を幻視させ、ふたたび湊川へつなぎなおす手法には、なだらかに物語場面を想起させようとする龍馬の作為があるとみたい。下の句では、湊川から自然に
流れての語をつなぎ、初句の
月と日をひびかせて、時の流れについていう縁語関係が構築される。結句にかまえた
菊の下水は、永久や不老長寿の象徴とされる一方、後醍醐天皇より正成がさずかった紋所としても著名だ。
流れて清い菊の下水とは、天皇に至忠の誠をつらぬいて散っていった曇りなき清心(誠心)の楠木氏であり、絵画的な構図としては錦旗日月のかたわらにながれる菊水旗の景を想像させる。
朝廷というものハ国よりも父母よりも大事にせんならんというハきまりものなり(文久三年六月一六日付書簡)と脱藩した池内蔵太を擁護し、内蔵太の母にあて弁明してみせる龍馬である。当時、勤王の忠臣として理想化された楠木氏にたいして、斯く共感・畏敬するのも自然な成りゆきだろう。龍馬にはめずらしい勤王の志士然とした歌である。
風俗通曰、南陽□[レキ、偏「麗」に旁「邑」]縣、有甘谷、谷水甘美、云其山上大有菊、水從山上流下、得其滋液、谷中有三十餘家、不復穿井、悉飲此水。上寿百二三十、中百餘.下七八十者、名之大夭。菊華輕身益氣故也。司空王暢太尉劉寛太尉袁隗為南陽太守、聞有此事、令□[レキ、前に同じ]縣月送水二十斛、用之飲食、諸公多患風眩、皆得□[チュウ、部首「やまいだれ」のしたに「繆」・「謬」共通の旁り]
みなと川うきねの床に聞ゆなりいく田のおくのさを鹿のこゑ
(平成二一年五月一三日識/平成二二年八月二九日訂)