福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
其之三
福井史跡 H18.06.13
福井史跡 H18.06.14
福井史跡 H18.06.15
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
瀧谷寺拝観後、ふたたび道は三国港の海岸沿いへ。あとは景色を眺めながら、暫くは北上するだけ。
右の写真2枚は三国港突堤こと通称エッセル堤。設計をジョージ・アーノルド・エッセル、工事監督にはヨハネス・デ・レーケがあたった。
我が国初の西洋式河口改修の実例として、国の重要文化財にも指定されているとか。
ちょうど、同突堤にかかわる顕彰記念碑建設のニュースを耳にしていたおりなので、「龍翔小学校といい、この突堤といい、三国町にとってはよほど象徴的人物群なんだろうなー」とか思いながら撮影。
んで、左は日本海の奇勝としても、また自殺の名所としても知られる国指定名勝の天然記念物東尋坊の一部。
「秋田県人 東尋坊に立つ」、そんなサブタイが脳裡をよぎるだけで、何やらデンジャラス(自殺の二乗)。
個人的な実見としては「余程工夫して飛び込まないと上手には死ねんだろな」とか思った。
とりあえず、自殺には向かなそうなので当然オススメはしない。
海の風を感じながら遊歩道を暫くいくと、岸壁にできた洞穴やその他の景色に目がとまる。
東尋坊をめぐる遊覧船など、観光地としての機能をみれば、秋田県は男鹿半島を想起させられる。「おなじ日本海だし夕日栄えもしそうだよな」とか思いつつ。
東尋坊のつぎは大湊神社の座す雄島[右写真]へ到着。
島は周囲約4kmの孤島で、全体は輝石安山岩からなっている。古くから神の島として多くの信仰を集めていたというから、本来は島自体神域として神体視されたものと思われる。
私的なイメージでいうと、神道や神社は仏教や寺院とはひと味違った民俗学的な香りが濃厚で、アレコレ想像を働かせるだけでも結構楽しい。
柳田國男によって規程される民俗学とは「文字には録されず、ただ多数人の気持ちや挙動の中に、しかも無意識に含まれているもの」なんだそうだが、”文字には録されず”という部分に、歴史学とは異なった学問性を感じる。
「どちらも人の行為と時の蓄積とが対象になる学問ながら、方法論においては正反対。文献主義と推測との”線引き”ができる人なら面白そうだ」とか思いながら島へ入場。
島を出て海岸沿いを今度は東へ。
海辺では打ちよせる波に玉砂利が転がされ、ひきぎわに「コロコロ」と音する。そこに「もののあはれ」を感じ、駄歌なんぞひねりながら梶浦地区の丸岡藩砲台跡[右写真]に到着。
ここは嘉永五年(1852年)二月に、高島流西洋砲術の高島秋帆門下生 栗原源左衛門によって設計された台場。台場跡は全国にも数あれど旧状をこれだけ留めている例は珍しいらしく、現在は国の史跡名勝天然記念物にも指定されている。
同所は土砂や石積みによって構成される弓なり状の台場で、陣地は東西に約33m、石積み(胸墻という)の高さは約1.8m、大砲を設置する砲眼数は全部で五ヶ所。
他藩の台場に比べると、いささか小さめの印象をうけるが、丸岡藩の石高数(五万石)を考慮すると、むしろがんばっている方だとも思えるし、逆にこの程度の規模だからこそ、現在に史跡として旧状をとどめえたのだろう。
「ホントこの時代、海に面してる藩は大変だよな」と来た道を梶浦のバス停までもどり、そこからバスであわら市の金津小学校まえまで移動する。
その目的は、鈴木主税も奉行職をつとめた金津奉行所の跡に足をはこぶためなのだが、30分近く探してみてもソレらしい目印はみつからない。
しょうがないので金津城溝江館の跡と、当時は金津奉行所の制札がたっていたという金津橋南詰を撮影し芦原温泉駅へ。ここからは福井市の近郊、森田駅へ移動する。
(平成某年某月某日識)