福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
福井史跡 H18.06.13
福井史跡 H18.06.14
其之二
福井史跡 H18.06.15
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
小浜藩酒井家の菩提寺空印寺へむかう道のすさびに、八幡神社をふと見かける。
八幡信仰という安易な連想から「酒井家って源氏だったっけ?」などと考えつつ(正しくは大江氏)、応神天皇と同体、源家の氏神とされる武神八幡神にサッカー日本代表の戦勝を祈願(旅行中ちょうどサッカーワールドカップの開催期間中)。
のちに調べたところによると、左写真にみえる木造鳥居は市指定の文化財で、建造は元禄七年(1694年)。強風のため倒壊したこともあるそうだが、げんざいも修補をくわえながら当時のカタを維持し、社では秋、若狭地方最大という例大祭「放生会」がもよおされる。
ついで曹洞宗健康山空印寺[右写真上]に到着。とりあえず、門ちかくにある八百比丘尼入定之地[右写真下]をまず撮影。
ここは「人魚の肉を食したがため、不老となった女が世と我が身をはかなんで出家し、諸国を放浪したすえにたどり着いた場所」という、全国的にも知られた人魚伝説にちなむ場所。
上のくだりの伝説が、全国的に流布した背景には、熊野比丘尼が熊野信仰の伝播に一役かったのとおなじように、八百比丘尼にも似た例が想起され、こちらは別称を白比丘尼ともいうことから、「白山信仰の伝播にさいし流布した伝説ではないか」とする説がある。
室町時代には若狭から京都にのぼった八百比丘尼が、当時の洛中で評判になったことが伝えられており、まさに若狭国小浜は八百比丘尼の本地といった観がある。また「ごくごく一部の人間にとっては、数年前に流行った某PCゲームの影響もあって、八百比丘尼伝説はそれなりに有名かも」と、ネタ的なことを考えたりもした。
江戸時代は初期の寛永十一年(1634年)、京極家のあとをうけ小浜の地をおさめた酒井家は、先にも述べたとおり、のちにここ空印寺を菩提寺として世々墓所をいとなんだ。戦国時代には若狭武田氏の守護館があったという寺の裏手に、いまも歴代の酒井家の墓所がおかれ、入場料をはらうことで立ち入ることもできる。
墓の入口に建てられた戸板にはマジックで「御用の方はインターホンを」といった趣旨のことが墨書されており、早速インターホンを押してしばし待つ。しかし数分まっても音沙汰はなく、何度かおなじ行動をくりかえしてみるものの、結局なんの反応もないまま、しようがないので寺から退散。
お初の方(お市の方と浅井長政の二女)こと常高院の墓所へ移動する。
常高院の菩提寺常高寺は、もともと常高院の発願によって、夫である京極高次の菩提寺として創建された寺である。寛永七年(1630年)に建造が開始され、その落成をみるよりはやく寛永十年(1633年)に常高院は江戸で没し、やがて同寺へ葬られた。寺の裏側、国道をはさんでみえる後瀬山にはその墓所[左写真]がある。
同所のたて看板によると、法名を常高寺殿(常高院殿の誤記?)松岩栄昌大姉といい、墓をとりまくように侍女七名の墓もある。
ただ、ある意味もっとも肝心の、京極高次の墓はここになく、それは滋賀県米原市にあるという。「一応、高次の菩提寺としてできた寺のはずなんだがなぁ」とはやはり思う。
ついで訪ねたのが常高寺から北西方、青井山高成寺とそれに隣接する小浜公園。まず寺の境内にある中川淳庵先生之碑[右写真上]を写真におさめ、おなじように梅田雲浜先生之碑[右写真下]を公園にて撮影する。
中川淳庵といえば、杉田玄白らとともに『ターヘルアナトミア』翻訳者の一人として名高い人物。ゆえに一般には医師というイメージでの想起がされやすい。
しかし彼の場合は、青年期にむしろ本草家として知られていたようで、明和元年(1764年)には平賀源内らとともに、武州秩父で火浣布(石綿を繊維状にほぐし編んだ布、火にくべて洗うことができる)づくりに従事していたり、『物類品隲』という物産会の出品目録を(源内らと)校訂していたりもする。
父親が小浜藩の医師で本人も奥医師として酒井家に伺候している以上、その医師という肩書きに間違いはないのだが、個人的なイメージとしては「マルチな才能にたけた平賀源内にちかいタイプ」との観がある(無論、源内ほど多芸ではないにせよ)。
ちなみに墓所はもともと江戸小石川の金剛寺にあったそうなのだが、やがて墓は無縁となり廃絶。「この顕彰碑が墓石っぽいかたちなのも、墓に見立てて造ったのせいか?」と考えたりした。
また一方の梅田雲浜の碑ちかくには、2枚の看板が建てられており、1枚には年表形式で略歴を列挙し、もう1枚には関係史跡について列挙する。
後者「梅田雲浜先生墓碑など所在地案内」によると、小浜市には梅田雲浜先生記念碑(小浜公園)・同歌碑(同)・同銅像(中央児童公園)・同誕生地碑(千種二丁目)・同石像(雲浜小学校)・同石像(遠敷小学校)・同之墓(松源寺)。東京都には梅田雲浜先生之墓(台東区 海禅寺)。京都市には雲浜先生之墓(東山区 安祥院)・雲浜君碑(東山区清閑寺霊山町一)・梅田雲浜先生旧蹟(左京区一乗寺町)・梅田雲浜邸址(左京区烏丸御池上ル)。滋賀県大津市には梅田雲浜先生湖南塾址(長等小学校)があるらしい。
なかには現在、立地不明の碑もありそうだ。
(平成某年某月某日識)