福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
福井史跡 H18.06.13
福井史跡 H18.06.14
其之三
福井史跡 H18.06.15
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
3ページ目にもなって今さら言うことでもないが、小浜は「海の正倉院」とか「海のある奈良」などとも称せられる、海に面した都市である。往昔には海外交流の窓口として、また北前船の寄港地として活躍した時期があり、特産物や名物には当然海産物もおおい。
右の写真は「人魚の浜海水浴場」浜辺入口ちかくにみえる堀川改修記念碑。藩の制止を振りきり、災害対策(城下堀川を改修し、これを防火線とした)に尽力した町奉行武久権十郎の遺徳を顕彰する。碑文によれば昭和五十一年(1876年)三月建立。
この碑のそばには、人魚の浜にちなんだとみられる西洋風人魚像が2体配されており、その像について「うち一体くらい日本風人魚にしたら面白いのに」とか、余所事だからこそ勝手に思ってみたりする。
昔々の人魚伝説によると、伊勢の海で引き上げられたというソレは、下半身が魚で上半身が猿に似ていたそうだから(それでいて肉はたいそう旨いとか)、それをマジメに想像すると中々奇怪な情景になりそうだ。
ちなみに中国ではナマズを目して人魚とも称していたそうで、「人魚イコール美女という観念自体、西洋独特なものかもな」と、ふと思う。「人魚伝説のモデルになったというジュゴン(その肉は食めば長寿を得るという俗信も共通)だって、可愛くはあっても美形ではないしな」とも。
つづいて天気のよいなか、海岸沿いをしばらく北東方向へすすんでいくと、埋め立て臨海地に接する台場浜公園[左写真]に到着する。ここは名前のとおり、かつての台場跡にあたるとかで、園内には室町期の能楽家世阿弥由来の記念碑がある。
そして公園沿の道をやや東へすすんでいくと、今度は唐突に千葉周作の肖像画に遭遇。看板には「人の駅 浅利又七郎」と書かれ、小浜藩の剣術師範役浅利又七郎義信(千葉周作の師)につき若干の説明がしてあった。ただし肖像画については何ら説明もないので、この看板だけを見た人は「この人物を浅利義信だ」と勘違いして終わりそうな予感。
ついで、看板裏手の雲城水という湧水場にて喉をうるおし、小浜城の跡までしばらく移動。跡には初代藩主酒井讃岐守忠勝公を主祭神とする小浜神社[右写真上]と天守閣跡の石垣[右写真下]とがのこる。
幕末期、小浜藩酒井家の主は酒井忠義(第十二代・第十四代忠録)と同忠氏(第十三代)。なかでも忠義は天保十四年から嘉永三年(1843年〜1850年)、安政五年から文久二年(1858年〜1862年)の2度、京都所司代職をつとめ、再任期には安政の大獄(このさい京都で元藩士梅田雲浜を捕縛)や和宮降下にその手腕をふるったことでも知られている。
忠義は井伊直弼、その流れをくむ安藤信正・久世広周政権期に活躍したことからも察せられるとおり、政治的スタンスとしては非一橋派と幕権維持との両点から保守佐幕家に分類される。
無論、当時の一般として、また藩内に崎門学を擁する先天的条件からして尊皇の念にも当然あつく、和宮降下にさいしては公武互いの宥和にもつとめ、朝廷側の意見についても配慮するよう働いてもいる。
安藤久世政権倒閣後、忠義は松平春嶽・一橋慶喜政権の設立にともない失脚し隠居。幕府崩壊後の明治元年には、養子の第十三代忠氏から家督を譲られ、第十四代忠録として藩政に復帰。最後の藩主として戊辰戦後の処理にのぞんでいる。
「初代忠勝にせよ、忠義にせよ。政治家というのは参画政権の崩壊後にいたっては、今も昔も、浮き沈みなら変わらんな」と、そんなことを再認識しながら小浜神社に参拝をすませ、つぎには梅田雲浜の分骨がねむる北塩谷町の松源寺にむかう。
途中、江戸中期建造という北前船屋敷や千石荘に寄り道をし、さらに民家の軒先にあった皇紀二千六百年記念碑に感心をながら松源寺[右写真]へ到着。寺は梅田雲浜の実家になる矢部家(梅田姓は祖父生家)の菩提寺で、現在も縁者の墓がのこっているそうな。
梅田雲浜は儒者にして志士。小浜藩矢部家に二男として生まれ、山崎闇斎にはっする崎門学を山口菅山・上原立斎・京都望楠軒にまなび、京都ではその講主役もつとめている。
学統が崎門派という点でも察せられるとおり、熱烈な尊皇家としても名高く、梁川星厳・頼三樹三郎・吉田松陰・横井小楠などとも知己の関係にある。
嘉永五年(1852年)、藩政改革の意見書が藩庁より忌諱され士籍から除外。翌年ペリー来航後、攘夷派としても積極的に行動を開始し、水戸・長州・十津川などのあいだにたって周旋・遊説をこととした。ゆえ、安政の大獄ではまっさきにその捕縛対象となり、江戸にて獄死する。
ちょうど寺のまえで梅田雲浜像を写真に撮っていたところ、うしろから「こんにちは」と声を掛けられたので、振りかえってコチラからも御挨拶。どうやら声をかけてくれたのはお寺の関係者らしく、なりゆきから梅田雲浜について少々の会話。やがて雲浜当人の墓と矢部家縁者の墓について案内をしてもらうことになり、思わぬ僥倖に感謝する。
そんで、左がそのさい紹介していただいた墓の写真群。1段目と2段目が矢部家縁者墓所(一)と(二)、3段目が「梅田雲浜先生之墓」ときざまれる梅田雲浜の墓。このほか、獄死した東京(江戸)は青梅市海禅寺、ゆかりの京都は東山区安祥院にも梅田雲浜の墓はある。
説明および案内のあと、再度御礼を述べて寺をあとにし「京都に行ったら安祥院にも行って墓参りしておくか」と思いつつ道を北上。
「おみやげには何か飾れる置物を買って来て」という弟のリクエストに御答えして、うるしダルマでも買おうかと思ったのだが、お目当ての店は当日定休日であったらしく、しっかりシャッターもおりている。
しかし、このままタダで戻るのも勿体ない(?)と思い、ちかくのお箸のふるさと館に寄り道して箸を購入。気さくに話しかけてくる店のおばちゃんと会話をかわしつつ「おにいさんって旅行で歩いてるって言うわりには肌白いだねー」とか言われて少し鬱になる。「(´-`).。oO(肌は火傷したみたいに痛いし、色も少しは黒くなってるんだけなぁ)」とは思ふ。
(平成某年某月某日識)