福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
其之五
福井史跡 H18.06.13
福井史跡 H18.06.14
福井史跡 H18.06.15
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
福井市街の西公園まえでバスを下車。公園からちかい西巌寺という寺のまえで鍔師高橋の墓(三代目から六代目までを合祀)を撮影し、さきほど墓参りをすませた橘曙覧の自宅、通称「藁屋(わらのや)」跡[右写真]へ到着。
藁屋跡の敷地内には、歌碑と曙覧が妻の労を気づかい、みずから掘ったという井戸の跡がのこる。慶応元年(1865年)、松平春嶽は中根雪江の案内をうけ藁屋を訪問。曙覧にたいし「みやび男を見まく欲りする心より ふりはへて訪ふ蓬生の宿」との和歌を贈り、藁屋には「忍ぶの屋」と名を贈った。
つづいて今度は道を東へもどし、橋本左内の誕生地跡[左写真左]へ。
安政期の福井藩を代表する早咲きの逸材として、ツトに著名な彼の生家跡にも井戸の跡がのこり、コチラは左内の産湯にも使われたモノらしい。それ以外は極々一般の民家。
んで、左写真右の写真は医師笠原白翁の努力によって福井藩へと持ち込まれた種痘を、藩内へ普及させる目的で設けられた除痘館の跡付近。安政二年(1855年)、藩の医学所済生館に併設するかたちで設置された同所は、現在の福井春山合同庁舎付近にあたる。
みぎは松平春嶽のふかい信頼のもと、幕末期にはその片腕として活躍した中根雪江の自宅跡。主人春嶽とはその政治的思想をほぼ同じくし、公武合体的立場で藩政・中央政界に活躍した。晩年は現在の坂井市三国町宿へとうつり隠棲(三国町でソレらしい史跡がないか探したものの、当方には見つけられず無念)、趣味の釣などに余生をおくったそうである。
宅跡から北西方向に鎮座する神明神社の周辺には藩政当時、藩士らの居宅が多く、とくに神社前を東西にのびる神明通りの両側には、侍屋敷がズラリと建ちならんでいたという。
「中根雪江の禄高から推して、ここら辺に住んでたのは上士な方々が多かったんだろうけど、具体的にはどんな人物が住んでたんだろうねぇ」と神明通りをさらに東へ、ついで福井市立郷土歴史博物館に到着。例の如く下はその関連写真。
■1.福井市宝永三丁目 福井市立郷土歴史博物館の西側部分。訪館時、特別展はあいにく開催されておらず、松平家史料展示室で「松平春嶽をめぐる女性たち」というテーマ展示のみやってました(写真左側の看板にはその旨の告知)。 1時間弱の時間をかけてジックリ館内を見学し、売店では歴代藩主の花押入クリアファイルを購入。コレはこの旅唯一の自分へのオミヤゲです。 | ■2.福井市宝永三丁目 博物館の敷地内に復元されている福井城舎人門の遺構。この門は福井城の北門にあたり、その外堀や石垣の部分をふくめて一部が再現されている由。木造の越前赤瓦葺、高麗門形式。 |
■3.福井市宝永三丁目 博物館の玄関前にある「ふるき世の その面かけを 忍ふには ふみより外に しく物そなき 慶永」と刻まれた松平春嶽の歌碑。慶永は春嶽の実名(諱)。 | ■4.福井市宝永三丁目 博物館に隣接する松平家の別邸で、旧名「御泉水屋敷(おせんすいやしき)」という養浩館庭園。国指定名勝。 その沿革については公式サイトのコチラに詳しいので御参照。 |
みぎしたの写真は博物館から北東、桂林寺の跡地にのこる刀匠越前康継の墓(五輪塔)およびその顕彰碑。たまたま撮影のさい、黒猫一匹が五輪塔まえに居座っていたのでそのまま撮影。「目つき悪いよなー」とか思う。
康継は通称市九衛門、近江国坂田郡下坂村の出身。越前国一乗谷、ついで北庄にて鍛刀に従事。結城秀康入部後、その御抱えとなり、江戸の将軍家にも召され、家康の偏諱をも賜わった。以来、康継はナカゴに葵紋の刻印をなし、ぞくに「葵康継」・「御紋康継」・「葵下坂」などとも称される。
初代および二代目康継は江戸越前間を隔年にて勤務し、三代目以降、子孫は江戸と越前にわかれ、それぞれその業を継いだ。幕末期には新選組の土方歳三などが康継の刀を佩刀にしている。
なお余談として、その一門が作刀に南蛮鉄を好んでもちいたことは著名だが、最近なされた分析によると(個人蔵のものと美術館蔵のもの二本)、成分的には和鉄製の刀と大した違いは見れなかったそうである。
これを一種のブランド信仰といってしまえばそれまでだが、分析した以外の康継刀についてはどうなのか、一寸気になるところではある。
ついで顕彰碑からさらに東へ、松ヶ枝公園(山本条太郎翁誕生地碑)、岡倉天心郷家の跡碑、大山重寓居跡をへて、現在の川上神社[左写真]こと福井藩の鉄砲製造所跡に到着。
この川上神社の祭神は美都波能売命(みづはのめのみこと)と瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)とほか二神。前二神は水神で、福井城下の用水「芝原用水」の守護神とされたもの。
安政四年(1857年)に設立した鉄砲製造所は水車を動力に利用し、その水力を芝原用水からえていた。その縁ゆえか、製造所閉鎖後の慶応元年(1865年)、芝原用水の上水路にあたる同地へ神社が勧進されている。
このあとは道を南下し、加賀藩への備えとして配置された福井藩を象徴する福井城加賀口御門跡碑、さきにもふれた芝原用水跡碑、幕末期に設立された藩校明道館跡、福井藩の名奉行鈴木主税誕生地跡をへて、本日の史跡巡りは終了。明日(13日)は福井市内を中心にまわる。
(平成某年某月某日識)