福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
福井史跡 H18.06.13
其之一
福井史跡 H18.06.14
福井史跡 H18.06.15
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
6月13日、旅行3日目、午前4時30分起床。この日は福井市内に点在する史跡を中心にブラブラ散策することに決めていた。早速、朝の散歩がてら福井県庁周辺に足をはこぶ。
ひだりは幕末から130年以上たった現在でも、いまだ県行政の中心をになっている福井城の跡地。県庁・県議会議事堂・県警本部など、行政・治安の施設群がたちならぶ。敷地内には結城秀康公像・天守閣跡・地名「福井」の由来ともいう「福の井」の跡がある。
福井城は、それまで同地方にあった城と同じく旧名を「北ノ庄城」といい、結城秀康の居城として慶長六年(1601年)から約6年の歳月をかけて完成した。のちに「北」の文字が”敗北”の縁字なるをきらい、現在の福井に改めたという。一説に、同城の縄張りは徳川家康みずからの普請によるとも伝えられる。
ついで、福井城の堀をめぐる南東、内堀公園にはひだりの写真「旅立ちの像」(三岡八郎像・横井小楠像)がある。
足もとのプレートによると、銅像は安政五年(1858年)冬、長崎へ物産販売ルート開拓のため旅立つ三岡と、熊本へ一時帰国のため福井をたつ小楠とをえがいているらしい。
この二人、”師礼”の有無からみれば、正式な意味での師弟関係にはないだろうけど、大方の人は師弟的関係をもって二人を観る向きがつよい。
勝海舟は小楠の弟子について「善いのがないからネ」との感想を述べているが(徳富一敬・安場保和・山田武甫・嘉悦氏房・宮川房之では不満なのか、海舟は?)、個人的には「三岡にせよ、村田巳三郎にせよ、松平春嶽にせよ、”間接的”な意味では弟子と言っても差し支えはあるまい」と、このツーショットをまえにふと思ったりした。
つづいて、堀をへだてて県庁に隣接する中央公園と福井神社へ。公園には岡田啓介像・岡倉天心像・三岡八郎こと由利公正像[右写真]などの各像があり、神社には祭神でもある松平春嶽の像や彼にまつわる絵画[右下写真左]数種などが飾られていた。
福井神社は松平春嶽を祭神として昭和十八年(1943年)に建立。都合、最後の別格官幣社にあたるとのこと。社殿はもともと総桧造でなかなか壮麗さをほこったとのことだが、昭和二十年(1945年)戦火のため焼失。現在の建物は昭和三十二年(1957年)に福井大学工学部の設計に再建されたものらしい。
んで、右写真右が現在の拝殿。個人的趣味と主観でもっていうと、コンクリート製の造りが無機的過ぎて情緒も何もうごかない。伝統に”新風を吹き込む”という意味や、チャレンジ精神は認めますけど「なんか倉庫みたいだな」と思ったのが第一の印象。おなじく、境内摂社の恒道神社(祭神は中根雪江・鈴木主税・橋本左内)についても印象は同断。結局、好みの問題とは思いますが。
福井神社から南西、市役所からはちょうど西に鎮座する佐佳枝神社へ神社をはしご。同社の主祭神は松平秀康公・徳川家康公・松平慶永公の三柱で、ほかにも結城秀康(松平秀康公)に仕え殉死をとげた土屋左馬助正明命・永見右衛門長次命、福井城築城の任にあたった吉田修理義寛命らが祀られている。
また境内には自然石の造りが特徴的な中根雪江翁顕彰碑[右写真]がおかれ、その説明板によると、勝海舟の撰文と松平春嶽の篆額により明治二十五年(1892年)建立。戦後、福井大震災のため倒壊の憂き目にかいしたが、のち「旧福井藩士の会」の手によって修復再建されたものという。
このあとは福井藩の家老狛家の屋敷跡を撮影し、福井城石垣の石材、明道館跡をへて一旦ホテルへと帰着。朝食をすませたら、ふたたび史跡巡りへ出発する。
(平成某年某月某日識)