福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
福井史跡 H18.06.13
福井史跡 H18.06.14
其之一
福井史跡 H18.06.15
其之一
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
6月15日木曜日、旅行4日目、福井県内での史跡めぐりは今日が最終日。
この日は朝からの強風にくわえ、「強い雨になるだろう」という天気予報になにかと気をもみながら、宿泊ホテルから駅まで荷物をかかえて移動し、ロッカーに放りこんだあとは「雨がふってこないうちに」と行動を開始する。
んで、左の写真は敦賀駅前にたつツノガアラシト(都怒我阿羅斯等、「ツヌガアラシト」)の像。『日本書紀』垂仁天皇二年条にみえる意富加羅国の王子で、崇神天皇の御代に渡来し、当地を「角鹿」と名付けた額にツノを持つ人物。
日本へやってきた理由から身分的な立ち位地まで、垂仁天皇三年に渡来した新羅の王子アメノヒボコ(天日槍)と、なにやら物語的にはかぶっている。
各地の例と比較するかぎり「角鹿」という古名は、地形に由来するものと観るのが妥当なのだそうで、『古事記』仲哀記などにみられる「血浦」説同様、後世になって仮託された伝説の類と思われる。
ついで、駅から北方向にある気比神宮へ市の中心部をとおりぬけ到着。同神宮は延喜式名神大社にして、北陸道総鎮守・越前国一宮として知られる全国的著名神社。
この大鳥居[右写真]は木造としては日本で三指にはいる大型のもので、国の重要文化財にも指定される。建造は弘仁元年(810年)までさかのぼるらしく、いまにみえる様式は小浜藩酒井家初代忠勝によりととのえられたものらしい。現存の鳥居は天保二年(1831年)に建造されたもので、「気比造り」とか「気比型」とも通称される。
鳥居中央に配された有栖川宮威仁親王の御染筆に「デザイン上、いいアクセントになってるかも」と感心しながら写真を撮影。
『古事記』や『日本書紀』にみえる行宮(かりみや、行幸のさい設置される仮りの宮)の跡にあたるという気比神宮は、古代この付近までが海に接し、直接舟で着岸することもできたという。ただし、この伝えが考古的に実証されたことなのか、詳しいことを私は知らない。
ついで、大鳥居をくぐってなかへとすすみ、摂社あるいは末社とおぼしき各境内神社を参拝後、拝殿[右写真]へ到着。同神宮の主祭神は気比大神こと「イザサワケノミコト(伊奢沙別命)」。神が名号を多くもつこと自体さほどめずらしいことでもないけれど、この気比大神の場合は、応神天皇と御名を交換したことや「御食津神」の神名を奉られたことなど、名前にまつわる挿話でもって知られる。
気比大神は『古事記』・『日本書紀』などの記述によるかぎり、海幸をもたらしてくれる海漁神なのだろうし、あわせて海上交通をつかさどる海神(わたのかみ)ともみてとれる。また、同神宮の境内社に祀られるツノガアラシト(≒アメノヒボコ)も、その携えたとされる宝物から海神的性格が指摘され、気比大神とはあえて別神格とされるいる点に、”氏子の相違”が想起されたりもする。
さて、拝殿で柏手を打ち願でもかけようかという瞬間、風雨のため傍らにみえていた御神籤台が横転。ちょうど一枚の籤が足下まで飛んできたので、「これも何かの縁だろう」とその籤を購入。結果は「小吉」で、受け取りようによっては、吉とも否とも解釈できそうな微妙な神託。とっとと見なかったことにして忘れる。
ついで、雨宿りをかねながら芭蕉像や句碑[左写真]を散策しつつ、社務所で昨日買いそびれた弟のおみやげ用に名物”桃太郎神像”(2,000円、何気にたけぇ)を購入。同神宮の旧本殿(空襲のため焼失)にはかつて、日本最古という桃太郎像が刻されていたらしく、これはそれにちなむもの。
とりあえず「祭神にオホカムヅミノミコト(意富加牟豆美命、桃の神名)がいるわけでもないのに、なにゆえ桃太郎なんだろう?」とか思いながら、強風のなか当面の目的地 金ヶ崎城方面に移動する。正直、シャレにならない天気になってきた。
(平成某年某月某日識)