福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
福井史跡 H18.06.13
福井史跡 H18.06.14
其之一
福井史跡 H18.06.15
其之三
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
ついで、来迎寺とは西に道をかいして隣接する「武田耕雲斎等墓」に到着。ここは幕末期「天狗党の乱」で刑死した353名を葬る国指定の史跡である。
天狗党の名は水戸藩における(天保期以降の)革新・改革派勢力の俗称で、もともとは世直しを期した自称であったとも、保守層(俗称「諸生党」)からの蔑称であったとも伝わる。
政治上のスタンスをあえて分類するならば、勤王・攘夷の範疇にはいるであろう天狗党は元治元年(1864年)三月、水戸藩士藤田小四郎(藤田東湖の四男)、おなじく田丸稲之衛門らを中心に、常陸国は筑波山で挙兵した。これは文久年間以来、朝廷・幕府・雄藩のあいだで政策として論議されてきた鎖港攘夷政策を無視し、いたずらに偸安をむさぼるかに観えた幕府を、天狗党が見限ったことに由来する。
党には中核をなす武士層のほか、神官や農民なども多数加わっており(数だけなら武士層よりも多い)、その数は総じて約1,000人。たいする幕府は水戸藩をはじめ関東諸藩にその掃討を命令。両陣営は下野・下総・常陸の各国にて戦闘を展開し、天狗党も当時逼塞中であった各地の攘夷派に光明をいだかせるほど相応の善戦をとげている。
元治元年一一月以降、藤田小四郎の説得により党へ参加していた武田耕雲斎は、当時京都守衛の任についていた一橋慶喜を頼るべく、下野・上野・信濃・飛騨・越前と各国を西上するが、冬季の強行軍や頼みの一橋慶喜の出陣を知り、越前にて降伏。翌年の慶応元年、一橋慶喜を首脳とする幕府は厳刑をもってこれにのぞみ、結果的に水戸はその本支藩ともに、敵味方をふくめて多くの人的被害を出した。ために後世「天狗党の乱で水戸は人材が底を尽いた」とも称される。
「天保の改革から阿部正弘政権までは置くとして、井伊直弼政権からこっちは、幕府の政権運営って左右(革新・保守、穏健・果断などなど)のブレが激しいすぎる印象。文久期の松平春嶽・一橋慶喜政権、元治元年の雄藩会議の模索からは打って変わって、慶応元年の一会桑(一橋慶喜・会津藩・桑名藩)政権となると、一気に処置が過酷々々。さきに過激攘夷派にふりまわされた反省乃至反動とはいえ、流石に極端といえば極端か。まぁ、さじ加減って難しいよね」とか、ふと思う。
さきに史跡プリントを喪失し、そのうえ風雨のつよさにも根負けをきたしてきたので、最後に敦賀湾だけでもおがんでおこうと、つぎは松原海水浴場へ足をはこぶ。
この敦賀湾と幕末の関わりといえば慶応三年(1867年)四月、新潟港にかわる開港地の候補として(新潟港は水深不足や季節風の影響が問題視された)英国公使パークス一行が視察におとずれた場所として名があがり、古代史の『日本書紀』武烈天皇条では平群真鳥臣が塩に呪いをかけ忘れた場所として敦賀の名前が登場する。
右の写真は駐車場の片隅におかれる「駐輦の碑」で、明治天皇がここで松原の景色を眺められたことを記念し、勝海舟が詠んだ漢詩「曽経駐輦處 黎首憶甘棠 松籟如曲奏 海濤和洋々」がきざまれる。
右ちなみに看板によるとこの文意「ここは、かつて明治天皇が、お乗物をとどめて景色をご覧になられたところである。国民は明治の善政をよろこんでいる。松風の音はあたかも音楽を奏でているようであり、波の音もこれに調子を合わせて、まさに洋々たる日本の前途を祝福しているようである」とのこと。
なお、このあとは駅まで戻り、電車の時刻や乗り継ぎの方法を確認してからアーケードの連なる商店街にて福井土産をジックリ購入。有終の美はかざれなかったが、とりあえず福井県内の旅行はこの日で終了し、明日16日からは京都旅行へ切り替える。
今回の不満足点はつぎの機会に何とかしよう(次の機会って何時だ?)
(平成某年某月某日識)