福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
福井史跡 H18.06.13
其之二
福井史跡 H18.06.14
福井史跡 H18.06.15
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
朝食後、駅周辺の福井城百間堀跡をへて柴田勝家が居城北ノ庄城跡、現柴田神社・柴田公園[右写真]に到着。ここはかつての天守閣の跡にあたるらしく、境内には拝殿のほか、祭神の柴田勝家・お市の方の像、摂社として三姉妹神社(祭神:淀殿・初・於江与)などがある。
聞くところによると当時の北ノ庄城は、安土城に勝るとも劣らない規模の建築物だったそうで、イエスズ会の宣教師ルイス=フロイスは、建築途中の北ノ庄城についてその美観を称えてもいる。
さきに寄った佐佳枝神社と雰囲気的に似かよった観のある、整然とした現代風の境内。「伝統に新風を吹き込むにしても、調和のとれたコッチが好みだ」と、個人的趣味にかたよった感想を抱きつつ、川沿いの方向へと道を西進。
幸橋を左手にすぎ、中央三丁目の区画にはいると、やがて同方向にウィリアム=エリオット=グリフィスと日下部太郎の両像、および異人館の跡にいたる。明治初期、日本は西欧列強に比して立ちおくれた近代化を急ぐため、のちに「お雇い外国人」と称される技術者・教育者を大量にまねき、各分野の改革につとめたことは夙に著名だろう。そのさい外国人が滞在した館は異人館と称され、全国的にも史跡として残っている例は多い。
同館に滞在したお雇い外国人の一人グリフィス(1843年〜1928年)はアメリカの出身。名門ラトガース大学に学び、物理学や化学、語学などにも長じた。明治四年(1871年)に福井藩をおとずれ、藩校明新館において理科学の教師をつとめたが、廃藩のため間もなく辞職している。知日家としても知られる人物で、著書に『皇国』などがある。
一方の日下部太郎は前名を八木八十八といい、慶応三年(1867年)に福井藩留学生としてアメリカのラトガース大学に学んだ人物。たいへん優秀な学生で、成績はクラスでもトップクラス、将来を嘱望されたが卒業をまえに病死した。大学はその死を惜しんで、特例として首席卒業生にあたえる黄金の鍵を彼におくったそうである。
なお、同校ではグリフィスにも師事し、そのことが縁となってグリフィスは福井をおとずれることになるわけだ。
ついで異人館から数十秒、つまりは距離にして目と鼻の先、横井小楠先生寄留宅跡にいたる。同所設置の碑文によると文久三年(1863年)頃おもに滞在していた場所らしく、同年には龍馬もここを訪れたことはあったろう。また近藤長次郎が福井訪問のさい、ここを訪れたことがあったかもしれない。
このあとは中世末期に柴田勝家によって架設された福井の名橋「九十九橋」の跡[右下写真左]へ。現在もここには異体同名の橋がのこり、交通の要所にも変わりはない。
当時の九十九橋は別名「掛合橋」ともよばれ、北半分を木材、南半分を石材で造った何とも珍しい橋だったそうだ(ただし『日本山海名産図会』の絵よると、石材の部分は極短く描かれている)。
『和漢三才図会』や江戸〜明治期の橋番付表にも、ほぼ関脇クラスとしてその名がみえており、藩政期には北詰に制札場が、さらに幕末になると物産会所などが設けられた正に城下町の中心部をになっていた観がある。
藩政時代の京町と塩町の跡をしめす浮き彫りの碑を二ヶ所へて、橋から北西に位地する旧山町跡こと莨屋の跡[右写真右]へ移動。莨屋は龍馬にとって最後の旅ともなった福井訪問のさい、三岡八郎との会談に利用した場所だ。遺構は明治三十五年(1902年)火災のため焼失したよしである。
ちなみに、このとき三岡に目付として同行してきた出淵伝之丞なる人物。福井藩士に疎い当方が、いささか気にもなっている人物で、系譜によると柳生新陰流出淵派の道統を継いでいる人。
武術史上の出淵派は、成立初期の土佐藩とも小栗流和術とも交流があり、その点が個人的に気になる要因の第一。吉川英治の『宮本武蔵』(乃至『バガボンド』)やその他の剣豪小説には、一派の祖にあたる出淵平兵衛が登場していたりもするので、それなりに知っている人は知っているかも知れない流派。
莨屋の跡からやや南西に、現在は市営プールの用地にあてられる三秀園の跡がある。三秀園は横井小楠らの改革につらなる所謂「文久改革派」の重鎮、家老松平主馬が住まいした別邸庭園で、養浩館が書院風の造りなのに比し、三秀園は草庵風の建築様式が取り入れられていた。
なおコチラの遺構も莨屋とどうよう、明治三十五年の火災のため荒廃し、現在そのヨスガを偲ぶすべはない(かろうじて史跡の案内プレートが設置されてはいるが)。
このあと福井藩の年貢米貯蔵庫「明里米蔵」跡をへて、さらに新明里橋をわたり道を南下。足羽川の南へと向かう。
(平成某年某月某日識)