福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
福井史跡 H18.06.13
福井史跡 H18.06.14
其之一
福井史跡 H18.06.15
其之二
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
気比神宮のつぎに訪れたのは、桃山時代ここ敦賀五万七千石を領していた大名 大谷吉継の供養塔[右写真]がのこる圓通山永賞寺。
大谷吉継というと、断片的エピソードこそ知れ、じっさい史料にそくした知識となると、ほとんど皆無に近かったりする当方。著名なエピソードにおける漠然としたイメージばかりが先行していて、私の場合、実像把握に欠けている。
基本的におさえている線としては、その母が北政所(豊臣秀吉正室)に出仕していたゆえもあって、本人も秀吉に早くから仕官した所謂”秀吉子飼いの武将”。賤ヶ岳の合戦では内応工作などに手腕を発揮し、所謂”七本槍”に優るとも劣らない功績をあげる。以後、兵站管理や検地など、前線で華々しい活躍するというよりは、中衛的ないし官僚的な活躍をしていたようにみてとれる。
この点、関ヶ原の合戦における活躍や秀吉が語ったという「百万の兵を(吉継に)預けてみたい」云々のエピソードなど、そのイメージとはいささかの乖離観がなくなもい。仮に秀吉の発言が事実とすれば「器用な奴だから、百万の兵を預けたら、どんな仕事するだろう」とかいう程度の意味なのか、供養塔のまえで少しだけ考えた。
ついで”ちょっとした台風並”になって来た天気に辟易し、ちかくのコンビニで丈夫そうな傘を撰んで1本購入。金ヶ崎城へ向かおうと傘を開いたその瞬間、10秒も保たずに傘は骨組みごと大破しました。あまつさえ、史跡情報を印字したプリント用紙(コンビニで内容を確認後、カバンにおさめず外に出た)まで強風にあおられ消失し、文字どおり「( ゚д゚) ポカーン」と唖然、呆然。
さすがに当地での根本資料をうしない、心のなかで何かが折れるのを感じつつ、「せめて幕末維新関係の史跡だけでもまわらないと、敦賀まできた意味がない」と、拙い記憶と道路標識だけをたよりに、今度は西へ方向を転換。濡れ鼠になりながら唯々移動する。
歩きつづけて数分後、市内をながれる笙の川をわたり、大谷吉継築城の敦賀城裏門遺構がのこるという来迎寺[右写真]へむかう案内看板を発見。同寺には水戸天狗党の墓もあるそうで、まずは境内へすすみ、墓所をもとめて墓場をうろつく。結局は見つけられなかったわけだけど。
(平成某年某月某日識)