福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
福井史跡 H18.06.13
福井史跡 H18.06.14
其之五
福井史跡 H18.06.15
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
小浜駅まえの国道162号線から同27号線、さらに162号線を再度へて多田トンネル・遠敷トンネルのある方向、つまり東へ道をすすむ。
駅から約7kmを1時間と少々かけて移動し、東大寺二月堂のお水取りで有名な霊応山神願院こと神宮寺。その仁王門[左写真]まえに到着。
ちなみに普通名詞でいうところの「神宮寺」を大雑把に説明すると、神宮寺とは神社に属して、その領域ちかくに建てられた寺のことで(ホント大雑把)奈良時代以降、神仏習合思想にささえられ、かつては全国各地に多くの例がみられた。
立前としては「いまだ悟りの境地に達しえない業や煩悩に迷う"神"という存在は、"仏(悟り)"へといたる仏法を喜ぶ」という理屈のもと、さかんに神前仏事の必要性が説かれるとともに、「神の仏道帰依を助力する」とかいった名目のもとで普及した。
天台宗に属するここ神願院神宮寺はその縁起によると、和銅七年(714年)僧滑元(和朝臣赤麿)による建立。翌八年、若狭彦姫神社の二神をむかえることで仏と神の二道を奉戴し、鎌倉時代初期には「神宮寺」と正式に名乗るようになったそうである。
本堂[左写真]のちかくには、お水取りに使う湧水があり「いまも飲用できますので、宜しかったら飲んでみて下さい」ということで、勧められるままに当方も飲む。
縁起では天平勝宝四年(753年)、大和東大寺二月堂の修二会に川漁のため遅参した遠敷明神(若狭彦姫神)が、十一面観音にそのお詫びとして奉った湧水が当の「若狭井」の水。
「無祭祀となった神が妖怪や物の怪に落剥したなんて例を民俗学では聞くけれど、神仏習合思想では下手すると、なかば奴僕(やっこ)のような扱いだもんなぁ。日本の神さまは」と、近世の学者たち(主に儒学者や国学者など)が憤っていたことを思いだしつつ、寺をうしろに35号線を北へくだって若狭彦神社へ移動する。
延喜式では若狭国の一宮とされる若狭彦神社[右写真左]の主祭神は若狭彦大神(彦火火出見尊、遠敷明神、山幸彦)。
記紀における活躍は海幸山幸譚として著名で、神話との関連からか、農林業・商業・漁業・縁結び・安産育児・厄除け・交通安全など、種業に神徳があるもよう。なお、現在はインテリア関係者の信仰も集めているとかどーとか。
ついで35号線をさらにくだり、今度は下社の若狭姫神社[右上写真右]に到着。主祭神は海神オオワタツミの娘にして、ヒコホホデミノミコトの妻、若狭姫大神(豊玉姫命)。
記紀では「浦島太郎」でいうところの「乙姫さま」のような役所で、『古事記』においては出産のさい鰐(サメの古名)の姿になっていたり、『日本書紀』では龍の姿になっていたりと、龍宮伝説から異類婚姻譚まで演じているいそがしい人(つか神)。神社の神徳としては安産育児に霊験があるとか。
海幸山幸譚は、記紀神話のなかでも童話性に富んで挿話として知られ、最終的には隼人の帰属と鵜草葺不合(ウガヤフキアエズ、神武天皇の父)の誕生神話へと物語はつながっていく。ちなみに文化人類学・民俗学なんかの説によると、これらの神話は南方の国々にも類話がみられるのだそうで、記紀の場合、隼人がもたらした伝説を神話として採用したものだろうと言われている。
「異界者との間の子、この手の設定は今も大昔もファンタジーでは変わらない、定番の設定だよな」と再認識しながら今度は電車までの時間をつぶすべく、福井県立若狭歴史民俗資料館へ足をはこぶ。
んで「発車時刻までまだ1時間弱と余裕なので、ゆっくりじっくり見てまわろう」とホクホクしながら来たはいいのだが、当日は第2水曜日ということで狙ったかのように休館日。事前チェックをわすれてました。
致し方ない。よって予定を変更し、わりと近場の若狭国分寺へ方向を転換。奈良時代を学習するさいには、学校の授業でも決まって登場していた記憶のある(少なくとも私の時代はそうだった)国分寺、その一つが左写真の左。
発掘調査によると寺院にしては瓦の出土が少なく、屋根などは瓦葺きではなかった可能性が高いとのことで、本来の寺域は方二町(230m四方)ほどあったよし。また円墳(国分寺古墳)を寺域内に取り込んでいる点が特徴としてあげられ、現在は若狭姫神社[左写真右]を古墳上に祭祀している。
「古墳を破壊せずに取り込んでいるというのは、天台宗延暦寺における日吉大社、真言宗金剛峰寺における丹生神社みたいに、先住信仰を取り込もうという意図と、所謂”鎮守の神”という信仰にもとづくものなのかな?」とか考えつつ、この日の史跡巡りはここで終了。明日は敦賀市内をまわることにする。
(平成某年某月某日識)