福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
福井史跡 H18.06.13
福井史跡 H18.06.14
其之一
福井史跡 H18.06.15
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
13日に宿泊地を福井市から敦賀市へとうつし、この日6月14日は敦賀駅から小浜線に朝イチ6時代で乗車。約1時間ほどで小浜駅に到着する。
朝の登校とみえる学生たちに混じりながら、駅から北へのびる国道をしばらく進むと、左手の公園に杉田玄白顕彰碑[右写真左]と梅田雲浜像がみえてくる(杉田玄白顕彰碑の右上に、足だけ写ってるのが雲浜像)。
道路をへだてて公園とむかいあう公立小浜病院の玄関先には杉田玄白之像[右写真右]があり、いかにも「蘭方医杉田玄白を顕彰するにふさわしい立地」とか思った。
ついで市役所前の交差点を西へ左折し、一区画すすんだところを再び北上。しばらく進むと左手に、国学者東条義門誕生の地という妙玄寺がみえる。街中にそれとなく在るお寺だが、入口には「妙玄寺義門師之墓碑」と書かれた標柱もあり、見落とすことはないだろう。
東条義門は天明六年(1786年)同所に生まれ、十四歳で願蔵寺という他寺の養子となり、のちその寺を継承。文化四年(1807年)、妙玄寺住職をつとめていた兄実伝の死去にともない実家へ復帰。歌文を本居学派藤井高尚にまなび、本居宣長・同春庭らの国語研究に感化をされ、みずからもこれを研究するようになった。漢字音韻の研究書『男信』、古語活用の研究書『山口栞』などをものにし、天保十四年(1843年)に死去。精度のたかい研究家として、国語史にその確かな足跡をのこした。
左上の写真、妙玄寺義門師之碑と「釈霊傳義門法師墓」と刻まれた墓が寺の裏手にはある。
妙玄寺をでたあと、ここから南東方向に位地する発心寺を目指して道路を南下。情緒ある町屋風景に感心をしながら、さば街道起点プレートをへて、寺院のならぶ通りをば進む。「なまじ都会の有名寺院より、こういった地方寺院の方が、むしろ雰囲気なら出てるよな」とか思った。
途中、目的地に隣接する後瀬山(中世期、若狭国で守護職をつとめた武田氏の居城がある)を素通りし、左写真左の霊松山発心寺に到着。寺の造りといい、立地といい、「絵になる造りのお寺だな」と外観に感心した。
早速、たまたま墓地にいた地元の(かたとおぼしき)女性に、伴信友の墓[左写真右]について尋ねてみたが、「山川登美子さん(明治時代の歌人)のお墓なら知ってるんですが、信友さんのお墓はちょっと知らないですねぇ」との御返答。僧堂の方を指さしつつ「あちらでお尋ねになってみては?」という女性の勧めしたがい、お寺の関係者に改めて質問する。
当方の自己紹介をうけ「秋田から態々いらっしゃったんですか?」と、道案内までしてもらい墓の位地を確認。「近くにはハチの巣があるみたいなんで、一応気をつけてくださいね」という助言をうけつつ、墓前にて合掌。再度御礼をのべたのち、寺ちかくの伴信友翁之碑[右下]を確認後、市内北西方向に進路を転換。まずは道をUターン。
なお、伴信友は小浜藩士山岸惟智の四男、安永二年(1773年)生まれ。天明年間に同藩伴信当の養子となり、義父にしたがって江戸藩邸に出仕した。同地で鈴屋(本居宣長の号)門の村田春門と知りあい、彼の仲介で享和元年(1801年)宣長に入門。ただし宣長の在命期(同年九月二九日没)には間にあわず、あつかいは「宣長没後の門人」ということになっている。
その後、鈴屋門の後継者本居大平について実証主義・考証主義的な学風をうけつぎ、天保期には国学の「天保の四大家」の一人にもかぞえられる。現在もその史料研究については定評があり(私個人としては”勇み足じゃね?”と思う研究もありますが)、主著に『長等の山風』・『中外経緯伝』・『神名帳考証』などがある。
同門の平田篤胤(秋田藩出身、同じく「宣長没後の門人」、天保の国学四大家の一人)からは、ながく兄弟・親友のごとき敬愛をうけるものの、信友の学説を篤胤が了解を得ずに紹介したことや両者の学風・政治姿勢の相違などに由来して反目。最終的には生涯の絶交にまでおよんでいる。
両者の事における是非は兎も角として「篤胤は好悪の偏向が激しいから、お互い”馬があう”のならいいけれど、一歩間違うと正に付き合いずらい相手にはなりそうだ」と、私的にも思ったりはする。
(平成某年某月某日識)