福井史跡記(一)
福井史跡 H18.06.12
福井史跡 H18.06.13
其之三
福井史跡 H18.06.14
福井史跡 H18.06.15
史跡廻国記
福井史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
新明里橋を南にわたって二つ目の信号を右に、ついで十字路を北へ入ると右写真にみえる丹厳洞に到着。
ここは弘化三年(1846年)に福井藩の医師山本瑞庵という人が建てた草庵で現在は料亭。ものの説明によると橋本左内や三岡八郎、中根雪江や横井小楠のほか、橘曙覧や松平春嶽なども訪れて時々に密議をかさねた場所なんだとか。
個人的にこの手の"密議の地"といった類の史跡には、大抵「言ったもん勝ち」的な雰囲気を感じてしまい、一応眉に唾をつけてから訪れるクチなんですが、同所にはゆかりある人物たちの遺稿(書簡か何かか?)なんかも保存されているそうで、その点は信頼してもいいのかもわかりません。
料亭として営業されている都合上、なかにまでは入れず、外観を眺めてとりあえず退散。先に右折した信号から道を南へとくだり、今度は高照山瑞源寺へ。
途中、今後の行動を考えながら歩いていたところ、電柱の住所表示にて寺を素通りしたことに気がつきUターン。たまたまの散歩途中とおぼしき御老人に道を訪ねて、左写真左の瑞源寺に到着。
寺は臨済宗妙心寺派にぞくし、延宝二年(1674年)松平昌親(のちに吉品と改名)が福井松平家に養子入りしたさい、前住の吉江(現鯖江市吉江町)より移転させたもの。吉品本人と母高照院の菩提寺である。
「昨日の大安禅寺といい、ここ瑞源寺といい、吉品公はよほど仏教に帰依した御様子。それともただ孝心のゆえか」と思考しながら本堂[左写真右]のまえへ。
途中、寺で飼われている犬に吠えられたこともあって、住職と本堂のまえで鉢合わせ。しばし会話のうちに歴史が好きで福井の史跡を廻っていることを伝えると、親切にも寺や建物について、さらにいろいろ御説明いただく。
寺建物が福井城本丸御殿の移築物であることや、その修繕を控え、近々の調査がおこなわれることなど、堂内に招かれ説明をうける。わざわざ障子やフスマを一つ々々取りはずし、アレコレと説明してくれるさまには本気で恐縮いたしました(ちなみにそのさい頂いたプリントがこれ。折角なので転載しときます。→プリント上半分・同下半分)。
説明終了後、住職にはかさねがさねの御礼を述べて瑞源寺をあとにし、心月寺・一乗寺・運正寺など、藩政期の著名人らがねむる寺々をもとめて北西に移動。
心月寺には長谷部勘右衛門、一乗寺には鰐淵三郎兵衛、安養寺には結城秀康、とそれぞれが名士らの菩提になっている寺々なのだが、肝心の墓域はとなると都市部所在の寺院のゆえか、建物のそばにはないらしく、「近くにある墓地を根気よく探せば当該人物の墓だって何とか見つけられるだろう」とくくっていたタカが思いっきりはずれる。
お寺の関係者に直接場所をたずねようにも、寺によっては門に鍵がかかっていたり、声を掛けても応答がなかったりと、結局手掛かりすら得られずに終わりました。
墓探しに手段をこうじているうち結構な時間(30分から1時間くらい)も経過したので、今度は足羽山への道を急ぎつつ、北へ迂回路をめぐり橘曙覧生家跡[右写真上]をへて、山裾の妙観寺にある曙覧三女健子の墓をもうでる。
ついで足羽山の登り道「愛宕坂」から、途中交差する「百段坂」をくだり、山北東の左内公園へと移動する。愛宕坂登り口にある橘曙覧記念文学館はとりあえずあとまわしだ。
(平成某年某月某日識)