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福井史跡記(一)

福井史跡 H18.06.12

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福井史跡 H18.06.13

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福井史跡 H18.06.14

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福井史跡 H18.06.15

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福井史跡 H18.06.12(四)


福井市栄町→福井市田ノ谷町
舟橋北詰の三石碑四天王家記念碑

 電車を下車して森田駅から九頭龍川までしばし南下。左手に白山神社を「福井にはホント多いな、菊理媛神」とか思いながら行きすぎ、橋の北詰東側に到着。
 ここには左写真左にみえる(暗くて見えにくいですが)明治天皇御小休止記念碑、稲田宿跡碑、四十八艘記念碑の3石碑がならぶ。

 古戦場としても知られる九頭龍川沿いのここ舟橋は、防衛の意図もあってか中世末まで架橋のことなく、柴田勝家が天正六年(1578年)に四十八艘もの舟を連結して橋の代用となしたことに舟橋の歴史は始まる。
 近世には越前松平家旗下 四天王家に橋の管理はゆだねられ、左写真右はその記念碑。場所は橋南詰の西側にある。

 舟橋は明治十一年(1878年)、天皇の御幸をうけて舟の連結橋から木造の橋へと建てかえられた。
 天皇の御幸がもたらす文化・インフラ的影響について「青森〜秋田間御巡幸のさいにも険路として知られる矢立峠を整備したそうだから、全国規模でこれをみた場合、街道整備の見地からいって、結構な貢献度がありそうな気もする。もっとも、整備費用は地元持ちが大半なんだろうけどさ」とか考えてもみる。

新田塚

 橋をわたって舟橋から南西、新田塚町までしばらく移動。灯明寺畷・灯明寺町として地名にもなっている寺院灯明寺を「いやに今風の建物だな」と横目にしつつ、新田塚こと「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」[右写真]に到着。ここは国指定の史跡でもある。

 伝説の根拠にもなっている古典軍記『太平記』によると、義貞は城攻め督励のため手勢を引きつれ前線へ出陣。行軍の中途、燈明寺畷において敵方に衝突し、遭遇戦となり激闘のすえに自刃した。

 この戦いは新田勢約50騎vs細川勢約300騎、細川方の主力は歩射兵がメインのうえ、場所は遮蔽物が少なく騎馬では行動のしづらい田園地帯。当時の”騎兵から歩兵へ”と移り変わる主戦形態を想起させる。

 しかして義貞の死から300年以上のちの明暦二年(1656年)、たまたま同地を耕作をしていた百姓嘉兵衛が、水田より古兜を発掘。福井藩の軍学者井原番右衛門はこれを義貞のものと鑑定し、ときの藩主松平光通はこれをうけて石碑を建立。明治三年(1870年)には藤森神社の創建をみる(のち水害のため同地を移転)。

 所謂、南北朝時代についてさほどの知識も把持しない当方。幕末期には勤王の亀鑑としてあおがれる時代だけに、いつか史実の方面からもアプローチはしときたい。龍馬が和歌にうたう楠木正成や、比較的身近にも感じられる東北の南部氏あたりを取っかかりにして。

 さて新田塚をあとに、1時間と少々歩いて次は大安禅寺へ到着(途中、西藤観音堂という結城秀康の御霊屋をさがすも結局は見つけられず。あとで確認したところ、当方場所を勘違いした模様)。以下はそこでとった写真群。

大安禅寺菖蒲園
■1.福井市田ノ谷町
 大安禅寺は菖蒲でも知られる寺らしく、訪問時にはちょうど墓から古銭が発掘されたばかりで、「第23回 花菖蒲祭」なるイベントもやっていた。
 駐車場には観光バスが出入りし、地方の名刹としてにぎわっているらしい。
大安禅寺千畳敷
■2.福井市田ノ谷町
 大安禅寺へやって来た目的の一つ、越前松平家の歴代藩主がねむる「千畳敷」の入口。門の表側には葵紋が、裏側には桐紋が刻されている(墓から出るさい気がついた)。葵紋に統一せず、結城氏の巴紋にもよらず、豊臣家ゆかりの桐紋をつけているあたりが面白い。
 建設された万治二年(1659年)、桐紋への思い入れを伺わせる。
結城秀康墓
■3.福井市田ノ谷町
 徳川家康の二男として誕生し、豊臣家や結城家の養子となった福井藩祖結城秀康の墓。写真では一部しか見えないが、墓後方には秀康の死に殉じた家臣永見右金吾と土屋左典の墓碑がある。
 なお、彼が終生結城姓を称したのか、晩年松平姓に復したのかについては、当方定見をもっていない。ここでは一般的と思われる結城姓で表記した。一応、念のため。
千畳敷(結城秀康の墓からみて)右列
■4.福井市田ノ谷町
 結城秀康の墓からみて右側にいならぶ歴代藩主の墓石群。写真右奥から四代松平光通・その室国姫・五代昌親(のち七代吉品として復襲)、十代宗矩。
千畳敷(結城秀康の墓からみて)左列
■5.福井市田ノ谷町
 こちらは結城秀康の墓からみて左側にいならぶ歴代藩主の墓石群。写真右奥から順に十一代松平重昌・九代宗昌・八代吉邦・三代室道姫・三代忠昌の墓になる。
 三代夫妻後方の墓碑には、その家臣と思われる戒名が刻まれていた。こちらも秀康の例とおなじく殉死者の墓か?
橘曙覧奥墓
■6.福井市田ノ谷町
 福井県下ではかなりの著名人らしい橘曙覧(たちばなのあけみ)の奥墓(おくつき)。
 歌道方面に秀でた国学者で、明治期の歌人正岡子規からは「万葉集や実朝以来の歌人」と絶賛されている。
 松平春嶽が曙覧の死に贈った歌一首「敷島の道のしるべは絶えにけり 今より何をたずきにはせん」。
大安禅寺開基堂 ■7.福井市田ノ谷町
 写真は万治元年(1658年)、松平光通によって松平家の菩提寺として創建された当大安禅寺の開基堂。
 説明板によると、お堂は権現造りとよばれる様式で、日光東照宮とおなじ宮大工による建造らしい。内部には松平光通の像を安置し、福井県指定の有形文化財にもかぞえられる。

 菖蒲園・墓域・宝物館・寺院らをくだんの順番どおりまわり、その過程で、溝に足を取られ転んだり、福井藩医笠原白翁の墓所を探し忘れたり、売店で越前おろしそば食ってみたりしながら(遅い昼飯)拝観を終了。
 とりえあずは大安禅寺前のバス停から福井市内へもどることにする。

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(平成某年某月某日識)

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