京都史跡記(一)
京都史跡 H14.11.01
京都史跡 H14.11.02
其之一
京都史跡 H14.11.03
京都史跡 H14.11.04
史跡廻国記
京都史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
平成14年11月2日旅行2日目、午前5時半起床。着替えや洗顔をすませ早速「朝食までのあいだ散歩にでも出かけてみるか」と旅館を出発。まずは「龍馬関連の史跡に行ってみよう」と旅館の面する堀川通りから一本東の油小路通りに天満屋の跡を訪ねてみることにした。
新選組とその分派である御陵衛士とが戦った油小路の変跡(七条通りと油小路通りの交差点)と天満屋騒動の応援にむかう新選組と紀州藩士とが互いを敵と誤認し斬りあいになった北小路の変跡(北小路通りと油小路通りの交差点)を経て天満屋を目指す。
油小路の変跡[左写真上]、北小路の変跡[左写真下]ともに石碑の影は見られない。仮にあったとしても後述する「伊東甲子太郎外数名殉難の地」碑や「中井正五郎殉難地」碑に存在意義で圧され「わざわざ別個に設ける必要性は薄いもんな」と思ったりもする。
変事のあった2カ所からまま油小路通りを北上すると、左手(西側)には石碑と祠が見えてくる。ここが天満屋の跡で、陸奥陽之助や岩村清一郎など海陸援隊士らが紀州藩士三浦休太郎の命を狙い斬りこんだ場所だ。
残る石碑は天満屋騒動に殉じた十津川郷士中井庄五郎(当碑文では「正五郎」)を悼むもので、勤王派はもちろん海陸援隊にも親しく出入りしていた人物。龍馬や慎太郎のために賭してくれたその命に感謝し、しばし黙祷をささげる。
序々に日ものぼり周囲が明るくなってくるなかで時計を確認したところ、まだ朝飯には若干の余裕がある。
つぎも土佐藩絡みの史跡にということで、村山可寿江の寓居跡でも訪ねてみようかと思ったが、油小路の変や天満屋騒動にも関連深い新選組関係の史跡を近場の範囲でまわってみることに決定。
一度きた道をもどり、七条通りをさらにこえ、伊東甲子太郎の絶命地 本光寺の門前に到着。門の脇には説明書きと油小路の変を総括し建てられた「伊東甲子太郎外数名殉難の地」碑があった。厳密にいうと「外数名殉難の地」は本光寺の門前ではなく、もう少し北の交差点付近になるんだろうが細かいことを気にしても栓がない。
つづいて本光寺から南の交差点を西におれ、再び堀川通りにでると洛中新選組最後の屯所 不動堂村屯所跡付近が見えてくる。
現在は村から町にかわった不動堂町の屯所跡、その位置を正確に伝える史料は見当たらない。世に「幻の屯所」とも称される由縁だが、おおまかな位置についての証言ならばのこっており、その処は現在の資生堂ビル周辺、もしくはリーガロイヤルホテル京都周辺と聞いている。
かつて西本願寺で寺侍をつとめていた西村兼文によれば「堀川通ノ東側、木津谷橋ノ南」に屯所はあったそうなので、堀川通りの西側に位置するリーガロイヤルホテル京都より資生堂ビル周辺にあったとみる方が場所としては適当なのだろう。
とはいえ、念のため両所をデジカメにおさめ旅館へと帰還。朝食がすんだらトットと嵯峨嵐山方面にむけ出発をしよう。
(平成某年某月某日識)