京都史跡記(一)
京都史跡 H14.11.01
京都史跡 H14.11.02
其之五
京都史跡 H14.11.03
京都史跡 H14.11.04
史跡廻国記
京都史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
現在は公園と化している京都御苑の内部に堺町御門から入り鷹司邸跡、九条邸跡、中川宮邸跡、来島又兵衛戦死地跡を順次まわることにする。
鷹司邸と九条邸の跡には目印になる史碑もあり、該当地も見つけやすく助かったのだが平井収二郎や武市半平太などとも交流のふかい中川宮邸跡だけは見つけることが出来なかった。後日「貽範碑」と刻まれた碑が中川宮邸跡にあたることを知り、歯噛みしたのはいうまでもない。
ちょうど清水谷家の敷地あたるらしい来島又兵衛戦死地跡をへて、京都御所の南口 建札門[左写真]まえを通過。私が京都を訪ねたのはちょうど11月の1週目で、翌2週目からは京都御所の一般拝観も行われるとのこと。
御所の正殿にあたる紫宸殿、山内容堂と岩倉具視が激論をかわした小御所など、幕末と因縁あさからぬ史跡を拝めなかったのは残念だが「タイミングの問題ではどうしようもあるまい」
と、建札門のまえを通過し土方楠左衛門らの出仕した学習院跡をたずねる。学習院跡のそばでは京都迎賓館(仮称)の建設工事をしており、当時は何を建てているのかも解らず、ただその騒音を気にしながら皇女和宮生誕地跡を撮影。とりあえずは今きた道を戻り、御苑内東方へ移動する。
元治元年、禁門の変において土佐藩が警護にあたった清和院御門[下左写真]を撮影し、近くの三条邸跡 梨木神社に参詣をすませる。ここ三条邸も武市半平太や小南五郎右衛門など、土佐藩士の往来が盛んだった場所だ。想起することは多い。
つづいて姉小路公知や玉松操のねむる清浄華院の敷地を右手(東側)にながめ(時間との都合で今回参詣を見送る)、ちかく大久保一蔵寓居跡にいたる。例の如く同所をデジカメに撮影後、石薬師御門をくぐり再度、御苑内へ移動。なにやらポイントを歩きまわるラリーでもしいるかのようだ。
吉村虎太郎、武市半平太、平井収二郎などが訪をかさねた中山邸跡を右手(北側)に配し、猿ヶ辻[左写真]に到着。ここで姉小路公知は刺客に襲われ、間もなくその生涯を閉じる。
尊攘派を代表する公卿の死にたいし、吉村虎太郎は御所の鬼門にあたるこの地で乞食姿に身をやつし、犯人の探索に尽力したと伝えられる。
この事件ののち薩摩藩は御門の警備を解かれ、やがて会津藩と接近するその端緒ともなった。この事件が八月一八日の政変につながることを思えば「武市さんや虎太さんにとっても、結果として一つのターニングポイントになってしまった事件なのかもな」などと考える。
北門にあたる今出川御門をぬけ道路をわたり、冷泉邸の跡とおぼしき門をながめながら、ようやく本日の最終予定地 二本松薩摩藩邸(現同志社大学)跡に到着した。
ここ二本松薩摩藩邸跡[左写真上]では慶応二年一月、坂本龍馬・中岡慎太郎らの尽力が実をむすび薩摩藩と長州藩のあいだに数年来の和解が成立した。和解の成立後、龍馬は長府藩士三吉慎蔵のまつ伏見寺田屋へともどり、深夜から未明には伏見奉行所の襲撃をうけることになる。
ここから伏見まで直線距離でも約12km以上。駕籠を使い龍馬は伏見寺田屋までもどったというが「時間的にはどの程度かかったんだろう」とふと気にもなる。
さて、これで本日視野にいれていた史跡めぐりはすべて完了。時計を見れば刻限まだ若干の余裕があるようだ。ここから京都守護職屋敷跡にむかうべきか、上善寺へ向かうべきか、1〜2分ほどかんがえたのち、那須俊平らの首がねむる上善寺へと道をさだめる。
烏丸通りを北へのぼる途中、上立売通りをこえたあたりに、幕末の括りからは外れるが、時代にさきがけ勤王論を論じ宝暦明和の両事件に連座した藤井右門の邸宅跡がある。折角なので同所をデジカメに撮影後、再び道を北へとり、鞍馬口通りにかかったところで東へ右折。やがて寺町通りとの交差点に上善寺がみえてきた。
「何やら雰囲気がおかしいな」と思いながら近づいてみたところ、寺はちょうど工事の真っ最中。無理矢理なかに入ろうと思えば入れなくもなさそうだが、工事の邪魔になるのもよろしくない。指をくわえてあきらめる。
ただ、このまま引き下がるのも何かくやしいので、上善寺の碑をデジカメにおさめてはおく[左写真下]。微妙にむなしいものがある。
(平成某年某月某日識)