京都史跡記(一)
京都史跡 H14.11.01
京都史跡 H14.11.02
京都史跡 H14.11.03
其之七
京都史跡 H14.11.04
史跡廻国記
京都史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
ちょうど当方が霊山歴史館を訪れた一一月三日は「龍馬の世紀」なる特別展の開催時期とかさなり、個人的にも少々楽しみにしていたイベントでもある。
とりあえず、歴史館の玄関で入館料を支払い中へすすむと、館内の入口付近では龍馬に関するビデオ上映がおこなわれており、当方もゆっくり視聴したいところではあったが、時間の都合などを思うと矢張りそうもしてはおられない。映像を横目に、まずは順路をいそぐこととする。
入口からみえる階段をのぼり、壁などに施された幕末関係の装飾をながめながら進むと、今特別展のメインとも言える土佐藩関係の書簡展示場にいたることができた。
ここでは「龍馬暗殺 黒幕の新書状」といふ触れ込みで(個人的には穿ちすぎと思うのだが)紹介される新書簡(手代木直右衛門より石黒伝右衛門宛)のほか、初公開となる土佐藩関係者たちの書簡、徳川慶喜の佩刀「粟田口国定」(古刀)など、嘗めるように拝観をさせていただいた。
展示中の書簡の執筆者は陸奥陽之助・長岡謙吉・後藤象二郎・乾退助・岩村左内などのほか約数名ぶんで、個人的にも大変興味深く閲覧することができた。
宛名が岡本健三郎となっている書簡が比較的多かったように思うのだが「霊山歴史館のことだから、これは足立タカの縁者より寄贈されたものなのだろう」と勝手に見当をつけてみたりもする。
個人的には陸奥や長岡の書簡を読むことによって、彼らの龍馬暗殺後の動きが明確になったという点が収穫といえば収穫かも知れない。とりあえず、長岡謙吉の変名に「中江恭助」なるモノあったのは新発見ではなかろうか。
今回、霊山歴史館をはじめて訪れたこともあって、特別展と平常陳列の境目がドコからドコまでなのか当方には解らないが、書簡を閲覧後も館内をぐるりと一廻りし、各種展示物をながめ終え、再び玄関へとめぐりもどる。
入口にある受付兼売店において、私的にも興味のそそられる本がないか探してはみたが、結局なにも購入することなく霊山を離れることにした。
お次の目的地は伊東甲子太郎ら御陵衛士が屯集した高台寺塔頭月真院である。
人や車の往来が一段と多くなってきた午後一時ごろ、維新の道をくだりその石碑をすぎたあたりで右に道を北折する。
ふと目についた屋台で磯辺餅を一本¥100で購入し、坂道を西へブラブラとくだりながら、所謂「ねねの道」へ入ったところでさらに北へと進路とる。「もうちょっと甘味がつよくても良いかな〜」などという感想を餅について抱きながら、月真院の門前[右写真]にいたった。
同所は新選組を分離した伊東らが屯所として利用した場所であり、寺院に伝わるいい伝えでは龍馬や西郷吉之助なども何度か同院おとずれたことがあるのだという。
維新後、御陵衛士だった阿部十郎なども史談会の席において、龍馬の来訪を伝えてはいるが「中岡慎太郎の間違いではないか」とする説もありイマイチ判然としない。
月真院の撮影を終え、つぎに見えてきたT字路を西へ左折し、下河原通にでるとあたりには観光客を相手にした人力車がおおく走り、如何にも観光地といった雰囲気がある。
そういえば先の維新の道付近でも舞子さんをみかけることが出来たのだが、アレは矢張り「所謂なんちゃって舞子さんだったのだろうか」と今は思わなくもない。
下河原通にはかつて慎太郎や佐々木三四郎など、土佐藩士らがよく出入りしていた會々堂の跡がある。もっとも、この時は會々堂跡の位置を当方が勘違いしていたため、まったく関係ない場所を誤認したままデジカメにおさめてしまっていた。
今となっては悔やまれることだが、当時はそんなことに気づくこともなく、そうこうしているうちに目の前には「祇園さん」の名で親しまれる八坂神社が見えてきた。
(平成某年某月某日識)