京都史跡記(一)
京都史跡 H14.11.01
京都史跡 H14.11.02
京都史跡 H14.11.03
其之三
京都史跡 H14.11.04
史跡廻国記
京都史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
下車した五条坂のバス停から東にすすむということは、すなわち五条通を東進するということになる。流石に歩いているうちに道を違えていることにも気づいたが、時すでに遅くて路地へと入ってしまったこともあり、現在位置の把握が困難になっていた。
これには手元の地図が簡易すぎるなどの弊害も加わり、近辺を彷徨うこと約二十分。ようやく目印になりそうな建物をみつけ、何とか豊国神社前までたどり着くことが出来た。
結果的にかなりの時間をロスしてしまったことに後悔しながら、山内豊範が木材を献じたこともある豊国神社に参詣をすませ北に隣接する方広寺にむかう。
もし「方広寺に関する有名なエピソードは?」と問われるなら恐らく世間一般の多くの人は「国家安康 君臣豊楽」の銘で知られる釣鐘[右写真]のことをあげるだろう。
徳川家康や金地院崇伝が「豊臣家を君として家康の首を切りはなし、その繁栄を願うものだ」として豊臣家との開戦口実に利用したエピソードはひろく知られる。
幕末期になると東山七条から同五条にかける一帯を指し通称「大仏」との用語が頻繁にみられるが、これは天保年間に方広寺へ寄進された大仏像に由来する。
もともと天正十四(1586)年に東大寺の大仏にならい建立されたのが件の方広寺で、文禄から寛政(1592〜1801)のあいだ天災により二度の破却を繰りかえし、幕末期に安置された大仏はかぞえて三代目にあたる。なお三代目の大仏も昭和四十八年の火災のため既に焼失ずみである。
かつて同所に設けられていたという演武場には吉村虎太郎ら天誅組が屯集し、正確な位置までは把握しきれないものの、ここ大仏近辺には龍馬はもちろん、その同志たちの多くが寓をさだめてもいる。
このように大仏近辺には妙法院や智積院などのほか、土佐藩縁故の史跡も多いが、これは妙法院の院臣出井民部から大仏境内を貸地として貸し与えたい旨をつたえ聞いた平井収二郎が京都の土佐藩邸におこなった周旋活動によるところが大きい。
なお天誅組が利用した方広寺の演武場は、先の平井と板倉筑前介の資金協力によって設けられた施設である。これら平井による一連の周旋活動が京都で活躍しようとする土佐藩に新たな根拠地をもたらしめたと言えるだろう。
さて写真を御覧いただくと御理解いただけるかも知れないが、方広寺の境内には何故かやたらと車がおおく「なんか駐車場みたいなあつかいだな」との印象を抱いた。別に普段からこういうわけでもないのだろうが、見ていて気持ちのよいものではないだけに、些か気になったといえば気になった点である。
とりあえず「大仏近辺で石碑も残っていない寓居跡をさがすのに効率の良い方法はないものか」などとある意味で横着なことを考えつつ方広寺の拝観を終え、大和大路通を北へすすみ五条通から東大路通をへて清水道のバス停付近までやって来た。
ここで真っ先に思いうかぶ名所といえば清水寺だが、修学旅行のさいにも行ったことがある場所なので今回は見送くることとし、まずは清水坂手前の産寧坂を目指そう。
(平成某年某月某日識)