京都史跡記(一)
京都史跡 H14.11.01
京都史跡 H14.11.02
京都史跡 H14.11.03
其之二
京都史跡 H14.11.04
史跡廻国記
京都史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
この日から予約の都合により、宿泊先を河原町にあるホテルへ移さねばならないことになっていたため朝飯を完食後、御世話になった旅館を荷物をたずさえあとにする。
今後の行動予定としては、七条堀川のバス停から一気に目的の東山七条まで移動してしまうつもりでいたのだが荷物をコインロッカーに預ける意味もかねて、道すがら京都駅からバスに乗り込むことに予定を変更。連れと一緒に京都駅までむかった。
駅で一旦わかれることになる連れと合流予定時刻を確認し、当方は駅前のバスターミナルから東山七条方面に向かうバスへ乗車。「本日は一日乗車券のモトくらいは取れるかね」などと考えているうちに京都国立博物館前のバス停(つまり東山七条)に到着をした。
ここでは個人的に、京都国立博物館の平常陳列にも心惹かれるものを感じたが「見学には時間を取られすぎる可能性が高いので、いつか坂本龍馬展がある時にでも機会があれば」と無理矢理自分自身を納得させ、とりあえずバスを下車する。
するとバス停から東側に智積院[右写真一段目]を確認することができたので、早速デジカメを取り出しレンズにその門をおさめる。先ずはこのまま境内へすすもう。
智積院は幕末期に土佐藩兵が京都で屯集をするさい、その宿舎として利用していた場所の一つで、明治二年には陣所として使用していた建物の一部が事故のため炎上するなど、寺側としてはありがたくもない被害を被ってもいる。
寺自体の印象としては建築物が新しすぎることもあって(現在の建築物は平成になってからの再建が主)「良くも悪くも古さを感じさせないお寺である」との印象を抱く。
とりあえず、拝観料を支払い講堂・大書院[右写真二段目]・名勝庭園[右写真三段目]など、それぞれ見てまわることにした。
昭和二十二年におこったという火災のため、歴史ある建物の多くが灰燼に帰したことを内心「勿体ない」なぞと偲びつつ、「風流を好む容堂公なんかが来たときには、この庭園を眺めたりもしてたのかね」と庭園を眺めながら思い拝観を終える。
次にむかったのは智積院の北に位置する妙法院[右写真四段目]だ。
さて写真をよく確認してもらえれば御察し頂けると思うが、妙法院の門奥には何やら敷居がくまれているため、当日は境内に入ることができなかった。
当時は「秋などの特別拝観時以外、妙法院は一般公開されていない」とあらかじめ聞き込こんでいたこともあって「今秋の公開は見送られたんだろう」と一人勝手に合点し、別段驚きもしなかったのだが、あとで確認したところによると今年はちょうど一一月三日だけが休観日に当たっていたらしい。管理人は今ごろになって知ったが「微妙に鬱」なのは言うまでもない。
ところで件の妙法院だが、同院は文久三年八月一八日の政変で三条実美ら七卿が都を下るにさいし集合地となった場所であり、それは同時に七卿らの衛士をつとめていた土佐藩士たちの多くが集まった場所でもある。
また山内容堂も大政奉還後の上洛のさい、宿舎として同院を利用している。すぐ南の智積院に土佐藩兵が屯集したのも頷けよう。
上記のような理由から個人的には俄然興味の惹かれる史跡だけに「機会があればぜひ拝観をしてみたいもんだ」などと、その時は思った。無論、現在激しく後悔中。
まぁ、そんなことを考えながら道を北へすすんでいると我ながら何をとち狂ったのか、ちょうど馬町のバス停にバスが到着するのを発見したので、そのままバスへと乗車してしまったが、当初の予定ではこのあと方広寺を拝観する予定だったのだ。どうもこの時はスッカリ方広寺のことを忘れていたらしい。
数十秒後、妙な違和感から慌ててこのことを思い出すと、すぐさま次の五条坂にてバスを下車。時間が勿体ないあまりバスが進行して来たルートすら確認しないまま、バスとは反対の方向(すでに一度東山五条の交差点を左折していたので、この場合は東)に向かって走り出す。方広寺は南西側にあるというのに。
(平成某年某月某日識)