京都史跡記(一)
京都史跡 H14.11.01
京都史跡 H14.11.02
京都史跡 H14.11.03
其之六
京都史跡 H14.11.04
史跡廻国記
京都史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
池田屋事件で遭難した人々の墓に「今回は三緑寺(同寺には遭難者の本墓がある)まで行っている余裕がないので、どうかコチラで御勘弁を」といったお参りをすませ、つぎに大村益次郎の霊を祀った「大邨君之神霊(おおむらくんのしんれい)」碑を拝する。
そばへ立て掛けられるように在る「1824 〜 1869 大村益次郎の墓」と記された木札をながめながら「霊山にある複墓制の墓って全部でいくつあるんだ?」との疑問を抱きつつ、今度は天誅組の志士たちがねむる天誅組義士墓所[右写真上段]にむかった。
例の如く、こちらでも井原応輔・島浪間・安岡斧太郎・田所騰次郎・鍋島米之助・石川潤次郎・森下儀之助・土井佐之助・森下幾馬・楠目清馬・伴林六郎・安岡嘉助・池内蔵太・那須信吾・宍戸弥四郎・島村省吾・前田繁馬・沢村幸吉・松本奎堂といった人物たち一人々々の墓に参拝をすませ、またデジカメにもおさめる。
なかには天誅組という括りから外れそうな人物もいるようだけど、この類のミス(?)なら別に珍しいことでもないだろう。
とりあえず、写真の奥(上の写真では判定できないが)にある階段をくだり、土佐四天王の一人吉村虎太郎[右写真中段]の墓にむかおう。
上記の天誅組の墓所から一段低い場所にある虎太郎の墓をデジカメに撮影しながら、ふと天誅組三総裁(吉村虎太郎・松本奎堂・藤本鉄石)の墓所配置や墓面積の差異について疑問がうかぶ。「三名の差異はそれぞれ埋葬計画者が異なるゆえか」と。
ついでウッカリまわるのを忘れていた高杉晋作・来島又兵衛・久坂玄瑞・寺島忠三郎・入江九一らの墓に詣で、たまたま墓前にハチあわせた中年の女性と、墓の新旧について会話を交わす(高杉の墓だけがヤケに新しい石だったので)。
いよいよ最後は龍馬・慎太郎・籐吉ら三名の墓[右写真下段]にいたる。
文字どおり引っ切りなしにやって来る参拝者にまじって、墓付近にならべられた石版様の色紙をいくつかながめる。人が離れるほんの隙をついて墓や銅像・忠魂碑など、デジカメでの撮影を二〜三度くりかえす。
墓には近年発見された楢崎龍と推定される女性の写真が、スタンドに入れ置かれており、いくつかの供物もそえられていた。
ザッと霊山の墓を見てきた限りでは、供え物のある例は比較的少なく、先に挙げた墓のなかでも精々十五名分が有るか無いかというところ。初穂や玉串には何がもっとも適当なのか、一寸考えさせられる。
ここまで墓をまわり終えたうえで「入場料を取るなら献花台など諸整備に、金を使やあ良いモノを」と部外者らしい勝手なことを思ったりする。
さて龍馬らの墓前に数年来積もりに積もった祈りを捧げ、展望台から京都市中をのぞみ、明治天皇表忠碑を撮影後、霊山護国神社をあとにする。つぎに向かったのは隣に目と鼻のさき、霊山歴史館だ。
(平成某年某月某日識)