京都史跡記(一)
京都史跡 H14.11.01
京都史跡 H14.11.02
京都史跡 H14.11.03
其之一
京都史跡 H14.11.04
史跡廻国記
京都史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
平成14年11月3日、文化の日、旅行3日目。昨日同様午前5時半に起床。「起きたら起こ」すよう頼まれていた連れをゆり起こし、洗面所で身だしなみをととのえ、朝食の時間を確認後、近所に散歩へ出かける。もちろん今日は連れも一緒だ。
この日は宗教美術に興味のある連れと一緒に旅館正面の西本願寺へ。幕末期の西本願寺は尊王派に同情的・協力的な寺院として知られ、禁門の変では長州藩士ら(品川弥二郎、山田市之丞など)を匿い、無事京都から脱出させた話は比較的有名。とりあえず、午前6時をつげる暁鐘を聞きながら境内へすすむ。
一般寺院でいうところの本堂、浄土宗・浄土真宗でいうところの御影堂はあいにく修復工事の真っ最中。建物の大部が建築シートに覆われていることもあり、連れとしてはさほど見るべきモノもないらしい。今度は私の希望を入れて島原方面に足を向けることになった。
平成10年の蓮如五百回遠忌法要以来はじめられたという御影堂工事は、平成23年に完成予定。昨日今日に始まった工事ではないが、こうも行く先々で障害や工事中やにぶつかると「誰かに祟られてるんじゃないか?」と愚痴りたくもなってくる。
七条通りを西へむかう途中「ふたば」と書かれた看板に目がとまる。豆餅で有名な「出町ふたば」の支店か何かだろうと見当をつけ、朝っぱらから豆餅を注文。しかし、あいにくまだ仕込み中ということで今回は豆餅を食いそびれた。のちに聞けば出町ふたばとは「暖簾分け」の店にあたるらしい。
どら焼きで有名な「笹屋伊織」の看板を左手にすぎ、嵯峨野線の踏切が見えたところで道を北へ転じる。数分ほど歩くと亨保年間に設けられたという島原の西門跡[右写真上]にいたった。
島原は天正十七(1589)年から寛政二(1790)年の長きにわたり、京都で唯一公許されたいた花街として知られる。元禄期をその最盛期とし、江戸中期には祇園などに押され一時の衰退をみたが、幕末期にはふたたび多くの志士たちによって賑わい、かつての盛況を取りもどしたという。
土佐藩では中岡慎太郎なども薩摩藩士らとともに同地を訪ねたりしているが、新選組の屯所がちかいこともあって、私としては新選組絡みでの印象がつよい土地である。
西門跡を撮影し時計に目を転じてみると、散歩前にお願いして来た朝食の時間にも近づきつつある。そろそろ旅館へと戻るべく、まず久坂玄瑞密議の地こと揚屋角屋[右写真下]へ移動。
現在、同所は「角屋もてなしの文化美術館」として一般に公開されており(無論こんな朝早くからは公開してない)、江戸時代の揚屋建築としては唯一現存する建築物なのだそうで、国の重要文化在にも指定されている。とりあえず角屋の外観と「久坂玄瑞の密議の角屋」と刻まれた石碑をデジカメにおさめ、連れと歴史の話題などしながらブラブラと村山可寿江寓居跡へ向かう。
村山可寿江襲撃のため刺客たちの集合した北野天満宮から同所寓居跡まで「結構な距離があるよな」とかふと思う。踏み込んだ土佐藩の面子とその後の彼らの活動についてアレコレと考えているうち旅館へと到着した。
朝飯をすませたら当初の予定を変えて奈良へ再び向かうという連れと一旦別れ、今日は東山方面に運ばなければならない。本日はいよいよ坂本龍馬らが眠る霊山護国神社へ墓参りをする日なのだ。
(平成某年某月某日識)