京都史跡記(一)
京都史跡 H14.11.01
京都史跡 H14.11.02
京都史跡 H14.11.03
其之四
京都史跡 H14.11.04
史跡廻国記
京都史跡記(一)
京都史跡記(三)
兵庫史跡記(一)
清水寺に向かって延びるそれなりに急な坂(この坂も清水坂と呼称していいのか?)を上りおえ、土産店が処せましと建ち並ぶ清水坂をまえに道を北へと左折する。どうやらここからが三年坂(産寧坂)にあたるらしい。
この三年坂という呼称は通りの建設がなされた大同三(808)年にちなむものといい、別名の産寧坂も子安観音(民間信仰と習合した観音の一つで安産子育ての願をかなえるという)にむかう参詣の道にちなみ名付けられたものと聞く。
「流石は清水寺の近辺、人が多いな」などと手前勝手なことを考えながら、左折した目の前にみえる土佐藩士ゆかりのあけぼの亭井和井[左下写真]と明保野亭[右下写真]をとりあえずデジカメにおさめる。
ガイドブックの類では決まって「龍馬常宿の」といった形容詞のつく同店だが、現在の立地場所は幕末のころのソレとは既に若干異なっている。
別段、目当ての品があったわけでもないのだが「幕末期の建物を改修した」と紹介される店舗へいざ足を踏みいれようとしたところ、社会人とおぼしき女性たち(二名)から呼び止められ、カメラのシャッターを押してくれるよう依頼された。
使い捨てカメラを巻き上げ「では撮りますよ〜。ハイ、チーズ」と我ながらベタすぎる掛け声で撮影後、あらためて店内に足をはこぶ。
現在は京極井和井の支店として京小物をあきなう建物を眺めながら「改修という表現は建物を移築したという意味なのか、そうじゃないのかよく解らなんな」と考えつつ、和風情緒と香がただよう店内をあとに、下隣りの明保野亭を眺めるべく坂を下りはじめた。
こちらの明保野亭は京料理を売り物にした料亭として運営をおこなっており「龍馬御膳」と題されるメニューもあると聞く。どうにも「お高い」というイメージが付いてまわる京料理にしては、お求め安いお値段になっているようだ。
しかし、一人でいるときには食事にあまりお金を掛けるタイプでもない当方にとっては、それでも矢張りお高いものはお高い。ここでも例の如く「ま、いつか機会のある時にでも」と龍馬御膳を先送りにし、幕末期に明保野亭があった跡地を目指す。
三年坂をくだったところにある分かれ坂を一旦右へのぼり、こちらこそ真正の明保野亭跡[左写真]をデジカメに撮影。私的には龍馬の常宿というより中岡慎太郎の常宿と解するほうがイメージにはちかい場所である。
「新選組ファンにとっては明保野亭事件の現場といった方が解りやすいんだろうな」と考えながら坂をくだり、少しすすんで二年坂へと向かおうとしたが、途中なぜか分かれ道に気づかず、そのまま八坂通へすすんでしまった。
八坂の塔(法観寺)が見えてきたところで道を違えたことに気がつき、分かれ道をさがしながら来た道をさかのぼる。やがて無事二年坂へは入ったが今度は個人的にも食指のうごいていた竹久夢二ゆかりの甘味処かさぎ屋が見あたらない。そこで二年坂を行った来たりすること約五分「自分の目は節穴であると」実感しながら見落としていたかさぎ屋を発見した。
とりあえず店内へ入ろうと戸を開けてみたところ店内はいまだ静まりかえっているようだ。ふと時計を確認してみれば時刻は午前十時半。どうやら一一時の開店にはまだ時間があるらしい。流石にこれからの史跡巡りのことを考えると、ここで時間をついやすわけにも行かず「粟餅処澤屋と同様お目当ての甘味処には悉く逃げられるらしいな。オレは」と多少ガッカリしながら二年坂をくだり維新の道へとむかう。
(平成某年某月某日識)